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どうすれば楽になれますか

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2回目の質問になります…。ジ病にかかり治るという事はないようです。
ですが、死ぬ事もない。
このしんどい身体で生きていくしかない…地獄です。
幼少期に親に捨てられ、自分一人でも食べていけるようにと資格をとり、やりがいのある仕事につきました。その後、心臓♿🏥で3回の手術。障害をかかえても向き合って生きてきました。そして今度は治る事のない難病。
私は刑事事件の被害者になった事もあります。
犯人は「証拠不十分で不起訴」になりました。
その人間が幸せに家庭を持ち何事もなかったかのように平和に暮らしている。
何故、そんな人間がのうのうと暮らしていて、私がこんなにも重い岩を背負わなければいけないのでしょうか。嘘をついて力の強い人間が笑って生きている。
岩が重すぎて…楽になる方法ばかり考えてしまいます。人はいずれ亡くなります。ならば、この先何十年も苦しんで生きていく必要はないのでは…と。
頑張っても報われない、治らないものなら。
気力体力限界です。
死にたくないのに亡くなる人がいる。しんどいだけで、ただ生きている。
どちらも地獄です。
💊😷🏥この病気は治らないそうです。ならば楽になるにはどうしたらよいのでしょう…。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病気は病気であっても病気ながらに病気を忘れている時がある

私も体のあっちゃこっちゃを痛めつけています。
体は体で痛みはあります。
ですが、それを❝気に病む❞のはココロです。
たとえ病であっても、老いのさなかにあっても、借金を抱えていても、それを忘れている時があるものです。
事をこととして取り上げていない時。
確かに大問題は大問題であっても、それを過剰に取り上げていない時があるものです。
それを、仮に無心と呼ぶことに致します。
無心とは、心が空っぽになることではありません。
どのような事があっても、それを殊更取り上げることも無く、忘ぜられている様子です。
坐禅もまた、座ることではなく、精神の様子です。
外の出来事がどうであれ、その事に心が動じないことを坐といい、
内なる思いがあれこれ生じてきても、それに乱されない精神を禅と言います。
物事や出来事、沸き起こる思いに振り回されない子事です。
無心と言い、平常心と言い、坐禅と言い、無為といい、難しいことではありません。
この私が私の体でありながら、過剰に「わたし わたし」した気持ちが生じていない時は、普段問題になっていることでも、まるで問題にならないということがあります。
たとえばこれをご覧いただいていた時に、確かにお体は御不自由な事はおありでしょうが、ひと時でもその事が「苦になっていなかった」瞬間があったはずでしょう。
心は、それを拾い上げていない時は、他のものを拾いあげています。
心が何も拾い上げていない様子。
それを無心、無私心といいます。
そういう様子が日常、誰にでもあります。
その点を深めて頂きたいと思います。
私も問題にすれば問題になることは沢山ありますが、その問題は問題であっても問題ながらに問題を忘れていました。そういう生き方の時に、私は楽です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

楽は楽でも究極的な涅槃という楽を目指しましょう。

はなはな様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「楽になるには・・」・・

残念ながら、「一切行苦」のこの世界、八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五蘊盛苦)することからは容易に逃れられない以上、楽になることは正直、厳しいと言わざるを得ません・・

かといって、死後において、楽になるのかと言えば・・

死後における赴きにおいて、最も重要となる因縁(原因と条件)は、やはりその者自身の行い(業・カルマ)次第となるため、悪い行いを慎んで、より善き行いをしっかり積んでおかないと、その赴きは厳しいものとなってしまいます・・

しかし、仏教の目指す「楽」となれば、「悟り・涅槃」として、一切の迷い苦しみが滅された境地となります。

その境地へと向けた歩みが進めていけるようにとして、仏道修行がございます。

是非、これを機会に仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

もちろん、世俗世界的にも楽になっていくための教えもたくさんございますので、是非にも。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

早々のお返事有難うございます。
座っていてもしんどい。
横になると少し楽になるだけ。
今まで病気ばかりしてきましたが、ここまで身体がしんどいのは初めてです。
明日になれば治る。
もう少し頑張れば楽になる。
そう言い効かせてきましたが、それも叶わなくなりました。
友達と携帯で繋がっていても会う事も出来ない、会話する事も出来ない。
「しんどい」「辛い」という言葉ばかり打ってしまいます。
泣き言ばかりいれてしまうため、最近は携帯もあまりいじらないようになりました。
腕を動かすだけでしんどくなる。
この身体を忘れるには今は眠剤を使い眠って過ごすしかありません。
出来れば眠ったまま目を醒ましたくないのです…。
もっと大変な病気の方がいるのは重々承知です。
それでも「無心」になれません。
何故なら身体が辛いからです。
この一時を乗り越えても先が見えないのです…。

有難うございます。
少し落ち着き考えたいと思います。

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