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浄土真宗の特徴を教えてください

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

49日まで霊として留まるということで、御霊前となるところ、浄土真宗ではすぐ仏となるため御仏前を使うと何かで見ましたが、
その他どのような特徴がありますか。
どのように故人を偲ぶのがよいですか?
気をつけることはありますか?

故人が宗派をすごく大事にしていたため、できるだけそれに寄り添った形で、供養したいと思っています。

2014年10月12日 20:42

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

阿弥陀さまの信心

かじ様、ご質問ありがとうございます。

察するところ、どなたか身内の方が亡くなって、どのようにすればよいかという点を、浄土真宗の立場からおたずねということと思います。

「御霊前」とは言わず「御仏前」という、という例が挙げられていますが、そういうことであれば、浄土真宗では、「供養」という言葉はあまり使われません。

「追善供養」という意味では、浄土真宗では亡くなったときに、往生させていただくのです。
その時点ですでに、阿弥陀さまが作られたお浄土に生まれているわけですから、「追善」の必要はないのです。

中陰のお勤めやご法事は、残されたものが仏様に出遇い、わが命が仏様に願われたものだと確認し、仏様とのご縁を結ぶ機会とお考えになればよろしいかと思います。

浄土真宗の特徴としては、「賜りたる信心」ということをあげておきたいと思います。

私たちは、「信心」というと、私の方から仏様や神様を信じるということに目を向けてしまいます。

しかし、阿弥陀さまは「衆生を救う」というお誓いを立てられて仏になられました。

つまり、信心とは「仏様が私たちを信じる」ということだと考えます。

その仏様(阿弥陀如来)から差し向けられた「信心」に気づくということが、肝心なのだと思います。

2014年10月13日 1:33
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有り難し
おきもち

真宗山元派上西山正善寺住職

大慈悲心

かじさま
なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。

書店などの「冠婚葬祭事典」に載っていることと、浄土真宗の決まりごとは、異なる部分が多くあります。ご質問にある「御霊前ではなく御仏前」もそのひとつですね。

ひとつひとつ上げていくとキリがないのですが、ポイントとしては「亡き人は漏れなく尊い仏さまとなられていて、迷いも苦しみもしないし、その状態から変化することもない」とお考え下さい。
そうすれば、恐ろしいものとして追い払うために塩をまく必要もありませんし、成仏を願う必要もありません(すでに成仏していますから)。

そもそも仏さまに対して、煩悩の世界にいる私たちが何かをしてあげる、とは考えないのです。亡き方を偲ぶ心を通じて、私たちが大切なことに気づく。その時こそ仏さま(=故人)が喜んで下さるのだ、と考えます。

お礼を拝見して書いておりますが、お寺に行かずとも、どこで亡き人を偲んでも良いのだと思います。確かに故人の遺影やお墓の前では、より鮮明に故人をイメージすることが出来ます。しかし、亡き方は仏さまとなって、常に近くで見守って下さっています。

また「御仏はなぜそんな風に私たちのために尽くしてくださるのでしょうか」というご質問ですが、浄土真宗の本尊は阿弥陀仏という仏さまです。
阿弥陀さまは遥か昔、全ての命を救うと誓った仏さまです。
全てを救えなければ仏に成らないと誓い、すでに仏さまに成られました。

なぜ救って下さるのか。
それは人間の慈悲心など遥かに及ばない、大慈悲心をお持ちだからです。
そのお気持ちを受けて、安心して人生を生き切るのが、浄土真宗のあり方です。

ちょっと説教くさくなりました (^_^;)
また疑問が湧いたら、ご質問下さい。

2014年10月22日 0:13
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有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

質問者からのお礼

お礼が遅くなり大変失礼いたしました。
そうですか、浄土に生まれて、幸せにいるのですね。
たまにお寺に行って、想いを伝えれば充分なのでしょうか?
ちなみに身内ではないため、どのお寺に納められたかはわかりません。
どのお寺でも構わないのでしょうか?御仏はなぜそんな風に私たちのために尽くしてくださるのでしょうか。

いろいろと疑問です。

ありがとうございました。

「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗の生き方について

お世話になっています。 最近、結構普通に使っていたのですが、気になる言葉を見つけました。それは「自力」と「他力」です。 僕は、この二つは捉え方の問題ではないかと思いました。 まず、大前提として宇宙は縁という繋がりがあり、主体的な実体はありませんよね。つまり、例え歩くという行為ですら、「歩かせてもらっている」わけです。このように考えるのが他力です。 一方の自力は、「自分が悟った」「俺が努力した結果だ」などと、全てが自分の力でやっていると思っている人達なのではないかと考えています。つまり、大前提に「自己中心性」があるわけです。 悟った→自力 悟らせてもらった→他力 生きている→自力 生かされている→他力 もう1つ、観点を変えた考え方として、他力=あるがまま、自力=思うがまま(自我意識)があるとします。 こういった解釈はどうなんでしょうか? これは少し極論かもしれませんが、仮に地獄という苦しい所にいるとします。 そこから脱出しようとするのが、自力です。あるがままの状態なんだから脱出する必要はないと考えて脱出しないのが、他力です。 そうなると、他力の生き方は人間のはからいが一切なく、どうしようもない気がします。生きる上ではやはり自力のはからいも重要だと思うのです。 それとも、自力や他力という言葉にあまりこだわらない方がいいんでしょうか?

有り難し有り難し 10
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浄土真宗と曹洞宗の天国とは

こんにちは。 最近祖父が亡くなり、葬式も終わりました。 私は結婚していて、実家は浄土真宗、母方の実家は曹洞宗、嫁いだ先は禅宗です。 今まで浄土真宗のお葬式や法要などで実家の祖父母を供養してきましたので、浄土真宗のお坊さんの話をたくさん聞いてきました。 そのうちに、浄土真宗の考えに安心できるようになりました。 今回亡くなったのは曹洞宗の祖父です。 浄土真宗だと亡くなってすぐに浄土に行けるそうですが、調べると曹洞宗だと山を越え川を渡り裁きを受けて長いことかけて六道に分かれるのでしょうか? 今祖父はどこにいるのでしょうか。 49日までは祖父は修行をしているのでしょうか。 足も悪くなっていたのに山を越えて険しい道を一人で苦戦しながら行っているのではとすごく心配です。 寝たきりのままなくなった人でも、ちゃんと天国まで歩いていけるのですか? また、宗教が違っても天国で会えるのでしょうか? もう1つ引っかかるのが、私はお菓子の仕事をしているのですが、たまに祖父母が家に来たときにケーキがあれば出していましたが、最近は来る回数も減りあまり食べさせてあげられませんでした。 なので、シフォンケーキを焼いて棺に入れたかったのですが入れられませんでした。 クッキーだけは入れられたのですが。 そこで今はシフォンケーキは祭壇の前にお供えしてあるのですが、祭壇や仏壇にお供えすれば食べてもらえるのでしょうか。 もっと祖父にお菓子を食べさせてあげたかったです。 子供の頃はたくさん遊んでもらったのに、大人になってからは愛想が悪く、笑顔もあまり見せられませんでした。 曾孫には会わせてあげられたし、曾孫とは元気なときには楽しそうに遊んでいたのでそれが救いですが。 今からでも祖父に何かしてあげたいです。 亡くなってとても悲しいのに、普通にお腹が空いたり、普通に生活できてしまう事に罪悪感を感じ辛くなります。。

有り難し有り難し 10
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浄土真宗の自分の解釈について間違ってると言ってほしい

ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです

有り難し有り難し 58
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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

有り難し有り難し 45
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