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子育て中ですが、進行性難病にかかってしまいました。

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祖母、父、妹が脊髄小脳変性症という進行性難病です。
祖母と父は他界しています。
妹は寝たきりで会話もできません。

歩行しづらいとは感じていましたが怖くて受診できませんでしたが、先週遂に神経内科を受診すると、診断されてしまいました。

ショックです。

10代で癌を患いました。
23歳で結婚し子供も2人授かりました。小学生の男の子です。
子育て中でも看護学校に行き、去年念願の看護師にもなりました。

精一杯生きてきました。

まだ歩くのが怖い程度ですが、今後妹のようになっていくのが怖いです。
最愛の息子への遺伝はもっと怖いです。確率は50パーセントと言われています。

未来に希望が持てません。
私は不幸を周囲に振りまくために生まれて来たように感じます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無題

私の一生が明日尽きるとします
大好きな人たちに愛を伝えよう

私の一生が明日尽きるとします
愛しい我が子が一人で困難を乗り越えられる不動の強さを教え残そう

私の一生が明日尽きるとします
生きとし生けるものそして出会いの全てに感謝しよう

自分の過去と未来にあるありのままの運命を
受け止め全てを許そう

私の一生が明日尽きるとします
それら全てを讃えて 
ただ静寂に身をゆだねよう

はちさん?

あなたは賢さを持って生まれ
家族の病気から深い優しさを学んだはずです
そして優しさの次に学ぶのはまことの強さです

あなたは家族の病気からいずれ訪れるであろう
この日を心のどこかで解っていたはずです
心を定めて病を敵とせず友となさい

そして、もう一言

あなたが不幸を振りまいていると思ったとき
あなたは誰かを不幸に巻き込みます

あなたが幸せを振りまいていると思ったとき
あなたは誰かを幸せにしています

極楽が必ずあなたの心の中に表れますようお祈りします

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不舎

合掌

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個別相談可能
山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロップアウトするなど金銭的にも苦しみ多面的な貧困を経験。 それらを乗り越えた事は、今では自身を照らす灯り。 色んな社会的活動をしてますが、 自然の中で遊ぶことが大好きで、子供達に体験活動やイベント、木工教室などを催しております。 お寺では草花葬墓地などの永代供養も宗派問わずお迎えしております。

不幸以前の事実を生きる

「どうして、自分だけが。」
「どうして、こんな不条理な事が。」
誰かのせいにしたくなります、何かのせいにしたくなります。
自分を責めてしまうものです。
自分を責めたり、否定的な矢を向けてしまうと傷つくばかりです。
仏教には悟りという素晴らしいこころがあります。
自分の思い方、考え方を差し挟む前の心です。
大変なご病気でお苦しいことと存じます。
私も色々病気を抱えていますが、気になる時にしか気にしていません。
逃れようがないのです。だれも。生老病死は。
だから、無理して受け入れるとか、耐えようとか、諦めるという事でよりも、まず、私が今現にここに生きていて、知らない内に呼吸をしていて、心臓が動いていて、何か物事や出来事、状況がある。
そこはまっさらなまま永遠に真新しの今があることだけは、毎日変わらない真実です。
もちろん、誰でも不運に見舞われれば苦しいのです。悲しいのです。ですが、その不運な境遇にさらに追い打ちをかけるように自分を痛めつけているのは【何】でしょうか。誰での何でしょうか。
そこを明かしていく事は、あなたの苦しみを軽減させ、さらにはあなたの心を強くする力となり、自分の否定的で絶望的な思いから打ち負かされることが無くなる素晴らしい力です。
「自分が自分を痛めつける以前の私は、私に打ち負かされる事のなかった確かな私」です。
いつの時代も自分の心を苦しめるのは私の想う、想念、否定的な考え方です。
ご自身がもし、そういう境遇になられるとしても今はまだ、あなたが恐れておられる最悪の事態になっている訳でもありません。
いずれ私も死にます。
ですが私はまだ死んでいません。死んだわけではありません。
自分の想いから打ち負かされることなく、自分が思う以前の世界に目覚めることで必ず救われます。
大丈夫です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答下さりありがとうございました。
3週間経ちだいぶ落ち着きました。
事実を受け入れ、強く生きぬきます。

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