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仕事について

回答数回答 2
有り難し有り難し 14

最近、転職を繰り返していますが昔から2年単位で繰り返しています。
いつからか仕事は楽するものという考えが定着してしまいました。
ちょっとでも苦しいことがあるとなげやりな態度を取ってしまいます。
どういうもちべ-しょんを持てば苦しいとき乗り越えれば良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私個人の考えですが…

RPGゲーム(ドラクエやFFなど)を思い出して下さい。

地味にポイントを稼いだりする時期や、勇気をもって挑む時があったと思います。

「何か」を努力して乗り越えないと次ぎに進めなかったと思います。

もちろん、ゲームの途中だけでそのままいる事もできますが、それでは面白くないですよね。

「何か」困難を乗り越えるとそれに見合ったワクワクした世界が広がったのではと思います。

人生もそれに似ているのではと思うのです。

乗り越えた先には新しい世界が広がるかもしれませんよ。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

享受 (きょうじゅ)することを 教授させていただきます。

それはある種、力ですね。
無駄な労力を省いて物事を合理的に処理する力にするべきです。
わたしもズボラ人間です。ここでの回答も当初はスマホやタブレットで対応していましたが、全く追いつきませんでした。あえてPCで回答しています。その方が効率よく、素早く回答できるからです。
合理的、利便性を追求することは悪いことではありません。
自分が❝モエる❞スタンスでこなすことです。
そうすると今まで困難だと思っていたことをサクサクこなせる自分にウットリちゃんです。
目的が変わるからモチベーションが高まる子ちゃんなのです。
仕事に行く前に「今日もいつものあの仕事が待っているやれやれ」ではなく、①誰かのお役に立とう②あの人と時間を共に過ごすことを目的としよう③4時間の仕事を2時間で終わらせる負荷を自分に課そう④…など目的を変えてしまうのです。そうすると仕事は楽しめます。
おそらく人間のアタマの中では「仕事にいく」というと「仕事に行く」ということしか見えなくなってしまうのです。それは観念的なものの見方です。あなたの中で仕事に対するイノベーションを起こさないといけません。それは❝享受すること❞なのです。
坐禅会に来られる70過ぎの逞しいおばちゃんが「私は新聞配達をしているけどこの心身がやっている事は新聞の配達だけではないことに気づいた」と悟りを開かれた妙好人のような話をされていました。
これってすごく大事ですよね。べつに新聞配達だけをやっている訳では無い。そんな機械やロボットのような生き方ではないのですよ人間様は。(^<^)
家に居ながら、TVやスマホだけやっているようではツマランでしょう。
5感を開放してみてください。眼にも耳にも心身にも素晴らしいことがずっと享受されているのです。
それを見出すのが仕事の喜びっていうものではないでしょうか。(^<^)

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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