生きることについて
現在、うつ病で通院しています。かれこれ発病から10年以上経つでしょうか。
現在はかなり症状も落ち着き、パートという立場ですが、仕事に就くこともできています。上司も病気のことは理解してくれていて、それとなく気を遣ってくれたりもします。恵まれた環境で、今は幸せです。
ですが、ここまで来るのは本当に大変でした。病気の症状ももちろん苦しかったのですが、それ以上に世間のこころの病気に対する差別と偏見の目に苦しみました。たとえば、アルバイトの面接などでも、病気のことは絶対に話せません。
「うつ病の人を採用するわけにはいかない」
病気のことを正直に話すと、そんな言葉が返ってくることもありました。そのせいで激しい人間不信に陥り、よけいに病気が悪くなる。・・・そんな時期もありました。
その時期のトラウマなのでしょうか。今でもふと人間について、生きることについて考えることがあります。いくら法の下の平等を叫んでも、差別はある。人生、どこでつまづいてしまうかわからない。・・・そういったことを思うと、何だか人間や人生というものが、とてつもなく怖いものに思えるのです。
正直、人間として今ここにいることを後悔する時もあります。なぜ、僕は生まれて来なければならなかったか。死にたい、とまではさすがに思いませんが、生きることが怖い、というのが正直な気持ちなのです。
なぜ、こんな恐怖を感じながら生きなければならないのでしょう?
生きることが苦しいのは、やはり当たり前のことなのでしょうか?
よろしければ、ご回答の程よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
考えより 事実を大事にしましょう
ここに二人の人間がいるとします、。
Aさんは極度の不安症
Bさんは精神的にタフな人
不安を感じやすいAさんは、失うかもしれないことを失う前から、まだ失ってもいないのに「失ったらどうしよう」と思いの上で恐れています。相手にしているのは自分の思いの世界が中心です。
また、過去の経験を終わったことにもかかわらず、いつまでも思い起こす習慣、クセがついています。
ですから毎回、失う前から失ってもいないのに「失うのではないか」と恐れているだけなのです。
自分のその仕組みに気づいていないだけなのです。
そもそも失うとは何でしょうか。
具体的に❝どうなる事❞が現実の世界で❝失う❞ことであるのでしょうか。
それすら明確でない内から失うことをおそれているのがAさんをはじめ、多くの人たちの生きざまです。
さてさて、Bさんには、失うことがありません。
いつも、であっている世界、相手にしている事が❝いま❞の事だからです。
世間の人がいうところの失い、損失、メンツが潰れる、ようなことがありません。
もちろん失敗はするのです。ですが、心に於いて悔やみやクヨクヨがないだけなのです。
現実の今を生きているので、頭の中でのイメージで生きていません。
ですから、何かをやらかした時にもすぐに対処、対応するだけです。
Aさんには特徴があります。Bさんと次の点で異なるだけなのです。
その点に注意すればAさんもBさんと同じくタフになれるのです。
Aさんは考えの世界を中心とした生き方をしているのです。
Bさんは考えや思い、イメージの世界ではなく、事実の世界を生きているだけです。
タフに生きようとか、恐れない様にしよう、などということすらやっていません。
ただ自分の考え、思いというものを良く見つめて、そこに染まらない生き方をしているだけなのです。
もし、そういう生き方を望むのであれば、事実の世界を中心に生きる事です。
それが坐禅です。そういう指導をする指導者の下で学ぶことで必ず、自分の思いに溺れない生き方を手にすることができます。
私もかつてA的人間だったからです。
今、禅を学んだおかげで、自分の思いに惑わされない生き方を手にすることができました。
ぜひ、機会がありましたら学びに来てください。
「一切行苦」について
しげ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
長らくうつ病を患っておられまして、誠におつらいことでございます・・
うつ病も少しずつ社会的な理解が広がってきてはおりますが、まだまだ色々な偏見や差別もありますのは、誠に残念なことでございます。社会全体が更に理解を深めてもう少し寛容さを滋養していくことができると良いのですが・・なかなか難しいところもございます。
ただ、本当に人間、生きていくということにおいては、代表的にも「八苦」という色々な悩み苦しみが伴うものでありますので、皆大小それぞれでつらくしんどいことをいくらでも経験していくのではないかと存じます。
また、しげ様のように、「生きることが怖い」という想いも皆一様にどこか持ってしまっているものではないかと存じます。
「生きることが苦しいのは、やはり当たり前のことなのでしょうか?」・・釈尊は、私たちが苦しむあり様を「苦諦」としてお説きになられました。「一切行苦」でございます。「行苦」とは、この世には永久永遠なるモノ・コトのあり得ない世界、無実体(無自性・無自相)の世界でありながら、実体視(執着)してしまうことで、無常であること、様々な移ろい行く現象が苦しみとなってしまっているということでございます。
そして、この生きる事における苦しみ、恐怖、不安を無くすための教えをお説きになられましたのが釈尊でございます。
それが、まず代表的な教えとしての「四聖諦」であり、「四法印」という仏法の要となる教えでございます。是非、このご縁によりまして、釈尊の教えを少しずつでも学ばれていかれるきっかけとして頂けましたら幸いに存じております。
また、「生きる事」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いて参りましたのでご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318925.html
また、上記とも幾つか重複致しますが、「生きる意味」につきましても下記の各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丹下覚元様
しげです。今回はご回答いただき、ありがとうございました。
失う「かも知れない」という、まだ起きてもいないことについて頭を使い、悩む。・・・まったくもって滑稽ですよね。わかってはいるんです。うつ病には調子の良い時と悪い時があり、僕も調子の良い時はB的考えができるのですが、調子の悪い時にはA的考えが顔を出す。そんな感じです。ですが、覚元様のご回答を拝読させていただき、病気に振り回されない生き方の貴重なヒントをいただいた思いがします。
まずは、自分に今できることを愚直にやっていきたいと思っております。今回の問答も含め、人生は学びの連続なのですね。座禅を学ぶことも今後考えていきたいと思います。
最後に、重ねて今回はご回答いただき、ありがとうございました。
川口英俊様
ご回答ありがとうございます。
そうですね。・・・『一切行苦』、苦しみは僕だけではなく、誰もが皆平等に感じていることなんですよね。頭で理解しているつもりでも、そういった学びの実践はなかなか難しいように感じます。
ですが、これを機に自分なりに生き方、学び方すべてを考え直していきたいと考えております。もちろん、仏法の教えも学び、今後の人生に取り入れていくことができれば、と考えております。
最後になりますが、今回はご回答いただき、誠にありがとうございます。