命の意味
こちらのサイトを知り、相談させて頂いたおかげで心の落着きが出てきました。ありがとうございます。
ふと思った事を質問させて下さい。
命が誕生する事に意味はあるのでしょうか?
誕生する場所には関連はあるのでしょうか?
我が家には障碍を持つ子供がいます。
戸惑いの渦中にいた時は、何故我が子がこうなったのか?何故我が家に生まれてきたのか?と思っていました。
でも主人に「家にこの子がやって来たのには意味があるはず。家だから、この家族なら大丈夫だと思ったから生まれて来たんだ。大切にしよう。」と、言われました。
この言葉を聞いてからは、障碍に対する療育などのサポートは受けていますが、1人の子として大切に育てています。
もちろん、壁にもぶち当たり涙も流してきました。
時々マイナス思考になる事もあります。
でも、主人の言葉に助けられてここまでやってきています。
医学的に言えば障碍は遺伝子や構造上のミスなのかもしれません。
でも仏道的には何か意味があるのでしょうか?
教えて頂けると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生まれたことには意味ではなく、事実があります
障碍を持つお子様をお育てになっておられるとのこと、お気持ち上でいろいろと大変なこともございましょう。又、一方で我が子の成長に、喜びや幸せを感じてもおられることでしょう。
どちらもあなた様の正直なお気持ちでしょう…どっちが正しいということもありません。
障碍を持ったお子さんの誕生に仏教的な意味があるかどうか…私にはわかりません。仏教の開祖・お釈迦様はそもそも結婚を認めておられませんし、ある意味では妻子を捨てて出家したのですから。そして釈尊と妻子との再会は、家族としてでは無く、師とお弟子の関係として でしたから…。
でも一つだけ言えるのは、生まれてきた命に差はありません。障碍の有る無しも関係ありません。皆がそれぞれ一つの尊い命であり、大切な存在です。
それを障碍の有る無しで、「障碍がある子供」としてレッテルを貼り、他の命と分けようとするのは社会の問題です。その社会を作っているのは私達一人一人です。
障碍があっても、特に他の子供と変わりなく、苦労なく生きていける世の中であれば、そもそも障碍など関係無くなるのです。もっと申せば、障碍という言葉すらなくなるかも知れません。
そんな社会は空想だ…と思えば空想のままでしょう。
そんな社会を実現する…少なくとも、「そんな社会の実現の為に私は生きる」…そんな人生があって良いのではないでしょうか。
僧侶として私も出来ることから始めます…例え、カタツムリのようなスピードであっても。
やってみなきゃわかりませんよね…私など「やらない善より、やる偽善」という言葉が大好きです。
仏様はとにかく最後の最後までトコトン付き合ってくださいます…頑張る人に。もちろん頑張れない人にも…。
質問者からのお礼
貴重なお話ありがとうございました。
そうですね。今私の目の前で起こっている事が全てであり、事実ですね。
空想を描くのは容易い事ですが、それを実現に向けて行動を起こす事はなかなか難しい事ですね。
でも、息子が我が家にやってきたのは事実。
仏様もとことんお付き合い頂けるとの事なので、私にも何か出来ないか真剣に考えてみようと思います。
ありがとうございました。