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後悔してもしきれません

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初めまして宜しくお願い致します
市で経営する病院の臨時職員として『カルテ整理』で応募した所、医療事務の資格を持っているので『ドクタークラーク』を勧められましたが未経験の上、資格取得から14年が経過している事を了解して頂き、研修や引き継ぎをきちんと責任持ってして頂けると言う条件で働く事にしましたが、
引き継ぎは2週間で終了され、挙げ句に引き継ぎ者は新卒者で、引き継ぎが上手く行かなく、私自信も経験もなく覚えも悪いので何度となく聞くが教えて頂きたいと御願いしてたのですが…
1度しか聞いてない事も『何回、聞けば分かるんですか?』『この間、教えましたよね!』『何で?分からないですか!』
トドメは、明らかに一度教えたんだから知らない!面倒臭いと言う態度に、私もさすがに限界を感じ上の人間に相談しましたが引き継ぎ者は、その新卒者しかいないと言う事で改善する事も無く泣く泣く退職を選びました。
仕事自体が透析患者さんの薬の処方をパソコンで薬局に飛ばす作業で人の命に関わる事だけに責任感からの決断しましたが、定年まで働こうと思っていただけに、辞めたくないのに辞めた事が悔しくて悔しくて情けなく1ヶ月経ってもち直れなず気持ちの整理がつかず、悶々とし前に進めずにいます
仕舞いには引き継ぎ者を憎んでしまっている自分もいます
本当に決着がつかず苦しいです


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

整理とはどういうことかをもう一度考えましょう。

自分が自分の感情に負けてしまった事を素直に認めましょう。
たしかにケチな根性な引き継ぎ者に感じられたことでしょうが、その人も心理的キャパが狭くていっぱいいっぱいだったのでしょう。
あなたも生活を優先するのであれば、喰らいついてでも「そこを何とか、もう一度教えて頂きたいのです」としがみつくべきであったことはご自身が一番分かっておられる事と思います。
仏教は今後のあなたの生活を経済的に成り立たせることに直接的な教えはありませんが、あなたが自分の怒りを鎮める教えが満載です。
とりあえずは済んだことです。
「あのときこうだった、こうすればよかった」というネガティブ意識をやめて、
「さて、じゃ、これからどうすればよいか、今後どうするべきか」という前向き、建設的な方向に意識を向けるだけです。
「で、さっそく、どうします?」
結論、これを教訓に新しい仕事を探すほかないのではないでしょうか。
そして、相手や他者を憎む、自分の心に真摯に向き合い「相手を問題にしてしまう原因である、自分の心をおさめる」ほかありません。
人や相手に非を求める自分の自我に気づくのです。
過去の嫌なダークカルテ…。思い出しても構いません。
思いだしたカルテをあなたが閲覧した時に、そのカルテの情報にあなたがあれこれブラックな思いを思い起こすことが医療的態度でないだけです。
カルテを観る度に先生が、ネガティブな事を想ったらいい先生とは言えません。
優れた医師は主観や私的態度でなくカルテを眺め、対策を講じます。
カルテはあくまでもオフィシャルで、たとえガン患者のカルテであってもそこに暗い明るいポジティブネガティブの隔てはありません。もちろんここで言うカルテとはあなたの過去の記憶、追認意識です。
今度過去の思いのカルテが出てきた時は、冷静に整理して、その情報を私的にとりある買わない様に、医療的態度を全うしましょう。
それが本当に整理する、という事ではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中、有り難うございます
そうですね。前を向いて歩いて行くしか無いですね

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