死んだらどこへ行くのでしょう
二度目の投稿です
前回、両親に優しく出来ないことをご相談させていただきました。
両親にきつくしてしまう度に、弟の写真を見てしまいます。
私に後ろめたさがあるからでしょうか?
でも、弟の顔が怒っているようには見えません。
むしろ、穏やかで優しさすら感じます。
弟が亡くなり一ヶ月が過ぎました。
弟は今どこにいるのでしょうか?
私が両親にきつく言ってしまうこと、私が、この家の後をとること
弟は納得しているのでしょうか?
わたしは、死ぬまでこんなことを悩まなければいけないのかと、毎日のように考えてしまいます。
弟が亡くなった次の日、実家に近い職場の赴任決まるなど、何か偶然とは思えません。
考えすぎなのか、必然なのか
不思議です。
人は亡くなると、どうなるのでしょうか
弟は今、私たちの事を見ているのでしょうか?
自分が亡くなったことを納得しているのでしょうか?
親に冷たくする私は、地獄に堕ちるのでしょうか?
とても怖いです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死は誰にもくる明日の世界。死したひとが既に居られる世界です。
いまわたし自身で分かる限りでしかお答えはできませんが、
ひとはみな死を迎えます。死ののちはどこへいくのか。
この命題は古来も古来、有史以前からの命題です。
それで答えはあったものでしょうか。
死は、あなたの明日です。わたしの明日です。
いやもっといえば、一瞬先の世界。
この回答中にも否応なく訪れる世界です。
では、あなたの弟さんはどこにいるのか。
わたしは、「明日の世界」にいるのだと思っています。
明日が既に訪れた世界に、弟さんは居られます。
そして必ずあなたも行く世界です。
地獄だ極楽だ、というのは、「いま」のあなたが作り出した
世界です。
天国もおなじ。浄土もおなじ。黄泉も冥土も彼岸も煉獄も
全部明日の世界です。
だれがその世界を「やすらか」にするのでしょうか。
いまをいきるあなたであり、わたしであり、いきとしいける
すべてのいのちです。
明日はいい日であってほしい。晴れになったらいいな。
暗いきもちもなくなってほしい。
すべて、明日の世界への「祈り」です。
明日の世界は、あなたの祈りで満たされる世界です。
もし、あなたにとって、都合の悪いことが起きたとしても、
それはどうしようもないのです。
なぜなら、だれも自分の「明日」を知らないから。
あなたも弟さんの「死」後を知らない。知る事が出来ない。
つまりそれは明日を知る事が出来ないからです。
でも、どうしようもない明日でも、祈ることは出来るのです。
善き日であれ。善き世界であれ。やすらかであれ。
その祈りに満たされた世界もまた「明日の世界」です。
あなたの弟さんがいる世界です。
わたしたちもいずれ必ず行く世界です。
だからこそいのちあるうちは、懸命に祈り、懸命に生き、
明日の世界を善き世界となるように祈り、信じて
日々を務めるのです。
その歩みの先に、弟さんが居られます。
昨日で留まらないで。今を歩んでいってください。
さちあれ。さちあれ。合掌
浄土真宗では
よこさん初めまして。前回の質問も拝見させて頂きました。
死んだらどうなるのか?
これは宗派によって違うのですが、仏教の最終目標は覚りを得ること=仏になることです。
仏になる方法は自力(自分の力で徳を積む)と他力(阿弥陀様にお任せする)の2通りあります。
浄土真宗では他力を説きますので、仏になるには仏様にこの世でお育てを頂き、死んだら仏として阿弥陀様のいるお浄土に生まれさせて頂くという考えです。
簡単に申しますと、人間から産まれるのは人間で、生んでくれた人間の家に住みますよね?
仏になるには仏様のお腹の中(この世)で成長し、仏様の苦しみと愛情のなかで生んで頂くという感じです。
ですから、弟さんはすでに仏となってお浄土にいらっしゃいます。
欲があり愚直が出て、喜怒哀楽に踊らされる私を「真実を知らず危なっかしいなぁー。正しい道はこっちだよ」と見守って、仏教に出会えるように願って下さっています。
欲があり愚直が出ても怒りません。
もっと良い部分があるのに勿体無いと涙して下さる。
自分の身勝手さに落ち込んでいる時は、大丈夫そのまま救うよと抱き締めて下さる。
反省し改善しようとしている時は、嬉しいと涙して下さる。
そんな仏様に弟さんはなっていらっしゃいます。
時間も必要です。まずはゆっくりとお体を労りください。
よこ様
釋慧心と申します。
人が死んだら何処に行くのか。
これは本当に難しい問題の一つですね。
仏教では生死(しょうじ)と言うて、生と死を切り離しません。
一体どこからが死でしょう。
死を点で抑えることは出来ません。
生も然り。
お医者様が、ご苦労様でした。と言うのは、
主に3つの要素を確認されます。
瞳孔の対抗反射
脈拍
心肺機能
これらを確認されたらご臨終です。
誰が決めていると思われますか?
医学でも宗教でもない。
意外にも人の死は我々の社会の承認で決まります。
臨終とはまさに終わりに臨んでおられるのです。
いきなりスイッチがoffになるように死ぬのでは無いのです。
臨終と言われてもまだ体温はあります。
聴力もしばらくあるそうです。
厳粛な時間です。
千の風の歌詞には様々なものに成り変わりしています。
同じではありませんが宗教でも似た解釈をします。
私も浄土真宗の住職ですので光西寺様と重複致しますが、
我々は勝手に自ずから合掌をしたり、この口で親の名を呼んだり、
仏さまの名を呼ぶことは絶対に無いんだと聞かせて頂きます。
愚痴や不平不満不足は勝手に出てきます。
例えば親の名、お父ちゃんとかお母ちゃんという名は、親が私より先に呼んでくれていましたね。
小さい時「ほら、お父ちゃんと言ってごらん」と何百回言われたことでしょうか。
その名前には、沢山願いがこもってますよね。
合掌はどうでしょう。
手を合わせないよ。とか、お墓参りに連れていって貰ったとか、誰かが手を合わせる姿を見たとか、
いわゆる縁を結んで頂かなければ、勝手には合掌しません。
我々や我々の親や祖父母を合掌の姿にさせてきたのは、全て仏さまの「働き」があってこそなのです。
先に往かれた方々は、その「働き」になって頂いております。
それを仏と呼び、またこの私も仏のお働きにより何れ必ずそれにならせて頂きます。
それを往生と呼んでおります。
ただ死ぬのではなく仏の働きとして往き生まれる。
往き生まれる前だから生前と言います。
仏に成るのは、後の方や有縁の方、またその後の方々が仏に成る為です。
その為には何より「信」が肝要です。
私には弟様は阿弥陀仏と同じ働きをしてくださる仏さまです。
極楽浄土にいたる人
五濁悪世に還りては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし
菩提寺に聞いてみましょう
お悔やみ申し上げます。
死後の事は宗教宗派によって考え方が違います。
あなたの宗教宗派は何でしょうか?
菩提寺のお坊さんに弟さんの事を聞いてみるのがいいと思います。
ちなみに私は阿弥陀様を信仰しているので、死後は極楽浄土にいくと信じています。
きっと弟さんは弟さんの望む浄土におられる事と思いますよ。
合掌
南無阿弥陀仏