明日死ぬかもしれないのに、努力できるのはなぜですか?
「明日死んでも悔いのないように生きる」
という考え方と
「目標にむかってコツコツ努力する」
という行動が、どうしても矛盾してしまうように思います。
1日で達成できない目標がある場合、その過程で死んでしまったら悔いが残るように思えて、コツコツ努力できない自分がいます。
もし本当に明日死んでしまうのであれば、1日でやりきれる楽しいことを選んでしまうのが普通ではないでしょうか?
目標に向かって進んでいれば、道半ばで死んでしまっても救われるのですか?
教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
80歳まで生きるかもしれないのに、努力しないのはなぜですか?
仰る通り、
明日明後日死ぬのが分かっていれば、
努力する必要なんて無いですね。
でも、
いつ死ぬか分からないのですから、
目標が達成できるように日々生きるしかないですよね。
コツコツ頑張っていれば達成できたのに、
明日死ぬかもしれないからとサボっていたのでは、
それこそ悔いが残るのではありませんか?
死んでも死にきれないのではないでしょうか?
マハトマ・ガンジーの言葉を贈ります。
『明日死ぬかのように生きよ
永遠に生きるつもりで学びなさい』
時は今 ところ足元 その事に打ち込む命 永遠の 御命
人は死ぬことは有りません、しかし、身体には 寿命が決まっています。
一歩一歩 例え少しでも、進むことが、大切なのではないでしょうか。
結果なんて、正直どうでも良いですよ。
人間には、俗に死が、三度あると言われます。
一度めの死は、 肉体と命が離れた時
二度めの死は、皆に忘れられた時
三度めの死は、その名前がなくなった時
です、今を真っ当しましょう。
「目標」をどこに設定するのか
キトス様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人生の「目標」をどこに設定するのかによって変わってくるかとは存じますが、今生における世間世俗的な幸せ(お金や地位や名誉や権力など死ねば消えてしまうような幸せ)を目標とするのであれば、死んでしまえばそれで終わりとなってしまいます。
一方、仏教では、今生だけではなく、来世、来来世も引き続いていく心(心の連続体・心相続)の向上に取り組むことで、やがて「悟り」へと至ることが目標となります。
今生だけの世俗的な幸せを目標とするのか、それとも仏教の目指す究極的な悟りという幸せを目標とするのか・・後者を目標とするならば、仏教を修習し、智慧の開発と福徳行(善徳行・方便行)に精進努力していくことが必要となって参ります。
何よりも、これからの心相続、心の連続体の赴きにおいては、己自身の行い(業・カルマ)によって、その赴く先、境涯が決まっていくこととなります。
ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、確かなる仏道を歩みて、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い赴き先、境涯へと向かえるように調えて参りたいものでございます。
できましたらこれを機会に、少しなりにも仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
こんなに速く回答いただけると思ってませんでした。ありがとうございます。
「死」に対する感覚というか、知識?考えが自分に全く無いのだと痛感いたしました。
私は生まれてからずっと無宗教なので、信じるものや神様、仏様がありません。
こういった悩みをきっかけにみなさん宗教や仏教を学んでいくのですね。
回答くださったお坊さん、ありがとうございました。