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人付合いについて

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有り難し有り難し 29

どうしても避けられない
仕事や地域での人との付き合いで
気にいらない人や
馬が合わないといいますか
考え方が違うの人と絡んでいかなければならない時など、どう付き合って行ったらよいのか悩んでます。

性格上、短気な方なのですぐ衝突してしまいます。
短気は損気ってのはわかりますが
この性分はなかなか直りません。
波風立てずに上手く付き合うすでなどごさいますか?

修行されたお坊さん達は、どんな人でも受け入れられますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分と衝突している事に気づけばあなたは立派です。

人は相手の欠点はよく気づき、自分の欠点には目もくれない、ペテン師のように隠そうとうすらする、という法句経の教えがあります。
これをちょっと別角度で説きますと、
自分にとって都合の悪い人間の、相手の悪い所ばかり見ていて、その人が自分をより良い方向へ導いてくれている他の面にはまるで目もくれていない、ということです。
これは、ほとんどすべての人間がそうしているぞ、というお釈迦様のお示しです。
人間には、自己防衛本能があるからです。
お釈迦様の教えをカンタンに申し上げますと、
悪い人良い人ということは元々なく、そこに「自分にとって」という都合を持ち込むから、自分にとっての良い人悪い人が生まれる、ということなのです。
この基準になるのが自我にゃん、こと自我意識なのニャ。
だから、どうしても自分や、世間の基準に当てはまらない私のようなしょーもない人に出くわすと、人はキャパ超え、理解不能、というカタチなどでソリが合わん馬が合わん気が合わんという事が起こるのです。
さて、問題は、相手ではないのです。
実は!あなたがその相手にイライラしたり、不都合を生じさせて、自分とぶつかっているのです。
厳密に言えば、自分が相手に対して、気に入らん、不都合があって、モクモク出てくる思いに対してあなたが相手にしているという事なのです。
現に今もどうでしょうか?そこにその当の本人がいないなのに、その人の事を想うとイライラ、モクモク、ドンヨリが出てくるでしょ?
つまり、あなたがリアルの相手ではなく、自分の思いに対して衝突してターゲットにしてきた事に気づいてください。
「OH 問題にしていたのは、相手ではなかった。私自身の相手に対する思いであった。orz」
(何故なら、相手を想い、本人のいない所で自ら苦しんでいる姿は、外の存在ではなく、内なる自分の思いのガスで苦しんでいるのですから)
もし、これが分かれば、仏道初段、黒帯です。わかったらお礼コメントください。(笑)
坊さんでも、これが分かる人は少ないです。とてもいい機会なので、よく自分を見つめて、自分が自分の思いによって苦しんでいたのかぁという事を喝破、見破ってください。
なんとなくでも分ったら、あなたなりの省察を返信としてコメント頂ければありがたいです。
「一切は我が事である 他人の事を気にするのも いない相手に腹を立てているのも わがうちである」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

修行はしてまへんけど

好ましい相手とだけ付き合っていけたら誰も、坊さんかて苦労しまへん。

なんで? 嫌うのか? 気に入らへんのか? 腹が立つんか? じっくり考えてみまひょ。

100%相手のせぃですか? ちゃいますやろ?

ボクもそうですが、自分をじっくり客観視すると、恥ずかしい自分の言動が見えてきますよ。

多種多様、十人十色、100人100通り、自分がいるから他人がいる。

逆に言うたら、他人がいるから自分が存在してます。

嫌いな人との出遭いも、あなたの人生の一部です。

好むと好まざるにかかわらず、すべてはご縁(思いはからいをこえた出会い)ですよ(^^ゞ

合掌

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有り難し
おきもち

真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いです。また、ボク自身も勉強させていただければと思っております。よろしくお願いします。

「凡夫」であることを聞かされるのも仏法。

「凡夫」とは煩悩に束縛されている愚か者という意味です。

私はどんな人でも受け入れるなんて到底出来ません。
当たり障りなく付き合うことに専念するだけです。

人間は、仏様に比べればあまりに愚かで浅ましい存在です。
だから、対人関係などうまくいくはずがないのです。
うまくいく人もいかない人もいるじゃないかと思いますが、仏様に比べれば大した差はないのです。

「私は凡夫であった」という気づきはとても大切です。
正しいものを教えてくれるのは仏様だけです。
是非、仏様の教えを聞かせて頂きましょう。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

ご返信ありがとうございました。
もう返信がないかと思ってました。

おっしゃることは良くわかりました。

自分なりにもう一度よく考えてみます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ