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もしかしたら嫌われているかも知れない

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

最近一部の友人から遠回しに煙たがられているような気がします。具体的には誘いを婉曲的に断られたりとかされました。

露骨に嫌われているわけではないので自分の思い過ごしという可能性もあります。自分もできる限り好意的解釈をしてはいますがたまに不安になります。

別に本心が知りたいというわけではないです。こういう時はどういう風にして精神を安定させればいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は人、自分は自分

取り柄がない様

まぁ取り柄がない様が嫌われているのならしょうがないと思います。
私(石橋)も嫌いな人はいますし、私の事を嫌いな人もいるでしょう。

取り柄がない様が言われているように、相手の本心なんてどうでもいいと思います。
誘いを断られたらその人に用事があったんでしょう。

人ばかり見ていると疲れてしまいます。

人は人、自分は自分です。 解決できない問題(ここでは相手の心と自分の考えの間)について考えるより、事実(誘いを断られた)を見るべきだと思います。何か別の用事があったから断られたんでしょう。

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有り難し
おきもち

好きな食べ物はスイカです。

嫌われる勇気 + 嫌われてみる

嫌われる前から嫌われることを恐れているだけかもしれません。
実際に嫌われてみてもなんてことは無いものです。
あなたがあなたらしくなった、 なれた、というだけですから。
おそらく、失う事を恐れているのでしょう。
厳密には、失わないものを失わないように、握っている姿であると思います。
たとえば、私はおそらく一部の人間から嫌われています。
個性を貫く為には、致し方ないと思っています。
私の尊敬する師匠も禅業界では煙たがられています。
本当のことしか言わないからです。
でも一部の方々からは尊敬されています。
お釈迦様だって、疎まれたり、ねたまれたりしました。世界中の人から愛されている訳でもありません。
私なんぞはあFacebookで、この人と友達になってしまうと、私が発信したいことを百パーセント発揮できない人、先輩株、檀家さん、地元の商工業者さんなどとは距離を置いています。
利害で関係が壊れる事の方が嫌ですから。
相手に嫌がられてしまうのであれば、それはこちらが反省すべき事を学ばせてもらえたという事。
誰でも心地よい相手、居心地の良い相手を選ぶものです。
その為にはみんなお互いに自我のレベルを相手の迷惑にならないようにさげるのが暗黙の了解というものです。自我のレベル、個性主張のレベルを程よくいたしましょう。(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

西教寺石橋様

ご回答ありがとうございました。確かに人ばかり見てたら疲れますよね。

今回はたまたまそういった事例が2回連続で続いてしまったのでちょっと不安になってしまいました。

しかし、一緒になれるチャンスは他にもあると思ったら断られてもそうでもないのかなと思えてきました。

安穏寺 丹下様

ご回答ありがとうございました。
石橋様のお礼のコメントでも書いたのですが自分からの誘いを2連続で断れれて必要以上にナーバスになっていたというのは確かにありますね。それが「嫌われる前から嫌われることを恐れている」ことなのかもしれません。

八方美人になりたいとはさすがに思ってなかったのですがその好かれている(好きだと思っている)一部を失ったらその悲しみが怖くて失わないものを失わないように、握っている姿になったのかも知れませんね。

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