もしかしたら嫌われているかも知れない
最近一部の友人から遠回しに煙たがられているような気がします。具体的には誘いを婉曲的に断られたりとかされました。
露骨に嫌われているわけではないので自分の思い過ごしという可能性もあります。自分もできる限り好意的解釈をしてはいますがたまに不安になります。
別に本心が知りたいというわけではないです。こういう時はどういう風にして精神を安定させればいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人は人、自分は自分
取り柄がない様
まぁ取り柄がない様が嫌われているのならしょうがないと思います。
私(石橋)も嫌いな人はいますし、私の事を嫌いな人もいるでしょう。
取り柄がない様が言われているように、相手の本心なんてどうでもいいと思います。
誘いを断られたらその人に用事があったんでしょう。
人ばかり見ていると疲れてしまいます。
人は人、自分は自分です。 解決できない問題(ここでは相手の心と自分の考えの間)について考えるより、事実(誘いを断られた)を見るべきだと思います。何か別の用事があったから断られたんでしょう。
嫌われる勇気 + 嫌われてみる
嫌われる前から嫌われることを恐れているだけかもしれません。
実際に嫌われてみてもなんてことは無いものです。
あなたがあなたらしくなった、 なれた、というだけですから。
おそらく、失う事を恐れているのでしょう。
厳密には、失わないものを失わないように、握っている姿であると思います。
たとえば、私はおそらく一部の人間から嫌われています。
個性を貫く為には、致し方ないと思っています。
私の尊敬する師匠も禅業界では煙たがられています。
本当のことしか言わないからです。
でも一部の方々からは尊敬されています。
お釈迦様だって、疎まれたり、ねたまれたりしました。世界中の人から愛されている訳でもありません。
私なんぞはあFacebookで、この人と友達になってしまうと、私が発信したいことを百パーセント発揮できない人、先輩株、檀家さん、地元の商工業者さんなどとは距離を置いています。
利害で関係が壊れる事の方が嫌ですから。
相手に嫌がられてしまうのであれば、それはこちらが反省すべき事を学ばせてもらえたという事。
誰でも心地よい相手、居心地の良い相手を選ぶものです。
その為にはみんなお互いに自我のレベルを相手の迷惑にならないようにさげるのが暗黙の了解というものです。自我のレベル、個性主張のレベルを程よくいたしましょう。(^<^)
質問者からのお礼
西教寺石橋様
ご回答ありがとうございました。確かに人ばかり見てたら疲れますよね。
今回はたまたまそういった事例が2回連続で続いてしまったのでちょっと不安になってしまいました。
しかし、一緒になれるチャンスは他にもあると思ったら断られてもそうでもないのかなと思えてきました。
安穏寺 丹下様
ご回答ありがとうございました。
石橋様のお礼のコメントでも書いたのですが自分からの誘いを2連続で断れれて必要以上にナーバスになっていたというのは確かにありますね。それが「嫌われる前から嫌われることを恐れている」ことなのかもしれません。
八方美人になりたいとはさすがに思ってなかったのですがその好かれている(好きだと思っている)一部を失ったらその悲しみが怖くて失わないものを失わないように、握っている姿になったのかも知れませんね。