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躾のなってない子供が庭に無断で入ります

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最近近所の子供が家の庭に無断で入ります。呼び止めても逃げるので捕まえようがありません。これ以上庭が荒されるのは心苦しいです。

最近の親は子供を泥棒に育てたいのでしょうか。実に腹立たしいです。子供たちが家の庭に無断で入るのを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

来るもの拒まず 去るもの追わず

お寺は半分、公共施設です。
その公共精神をあなたが持った方が、以前のお悩みにあったような暗い気持が薄れると思います、
お寺は半分、家庭もあるので半分プライベート、半分公共です。
うちのお寺には散歩おじさん、おばさん、犬、ネコ、鳥、幼稚園児、虫、何でもござれです。
このhasunohaに登録されているお坊さん方はみな同じような、来る者拒まず去るもの追わずな状況であるとおもいます。先日も某お坊さん番組ぶっ〇ゃけ寺で某うちの宗派の某和尚さんが「来る者拒まず去るもの追わず」の解釈に、永平寺やお寺の門はいつでも開いているからいつでもイラッサイというぶっちゃけならぬベタベタのベッタリな解釈をなさっておられまして番組内では「へぇ~」モノだったのですが、あまりにもベタすぎて興ざめだったとのお声も多くありました。で、もうちょっと立派な和尚様の別視点、別解釈でみてみましょう。
この「来るもの拒まず、去るもの追わず」ということば。
私の尊敬する老師、老師が仏なら私はノミの鼻毛の先っぽである、国師井上貫道老師サマ♡は実に素晴らしい解釈をなさっておられます。
「この心身は、来るものを何もこばまない。何が見えても聞こえても、この目や耳は何も拒むことなく、そのままに映し出し、受け入れる。留めておこうとしなくても、去りゆく。
追いかけるまでもなく、自然に去りゆく」と。
さすが師のカミ(神)的解釈に私はただただ開いた口がふさがらず、右の耳から左の耳へ来るもの拒まず去るもの追わず、シッポ巻いて逃げカエルも誰も追って来ずでした。
この心身の、法のありようをそのまま説いておられるのです。
それが悟りの様子の別角度からの説明です。
その証拠に、今も、私たちの身心は何もこばまず、何もとどめていないでしょう?
だからこそ私たちの身心はいつでもすがすがしいのです。
あなたも現に、入ってきた子供の姿はそのままに受け入れて、もう去ってしまっているのですから、おうまでもないでしょう。
来るもの拒まず…いつでも、こばまず入ってくるのが、この六門のはたらき。
去るもの追わず…どんなこともその時その場その事っきりでどこにも残り物が無い。(師父の説)
善し悪しや好き嫌いを超えて、ただ、それがそうあっただけという生活をして見てください。
それが仏道です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

いつの時代も子どもは遊ぶ場所を求めています。

取り柄がないさんのお宅のお庭が好かれてるんですね。
うちのお寺も昔はいっぱい子どもが遊んでいたようですが、最近はめっきり減りました。
好き放題に遊ぶ子どもを「コラー!」と叱ってる風景はいいですね。
無断で入るのを防ぐ方法は、防犯を強化することです。
ずっと庭の前に立っているか、子どもがよじ登れない塀を設けることをオススメします。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

釈心誓様

ご回答ありがとうございました。
さすがにずっと庭の前に立っているのは無理なので柵やら塀やらで物理的に入れないようにするのが効果的ですかねぇ。

追記

我侭なことではありますが物理的なやり方以外に躾のなってない子供の親に躾がなってないことを伝えるためにはどのような言葉を用いればよいのかも教えていただけたら幸いです。

安穏寺 丹下様

ご回答ありがとうございました。
「来る者拒まず去る者追わず」の精神ですか。何かの歌ではありませんがありのままにといった感じでしょうかね。あとぶっちゃ○寺は私も見ていました(笑)

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