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生きることのメリットとは?

回答数回答 3
有り難し有り難し 82

私には生きる理由がありません。

やりたいことも分からず、
働きもせず、
現実から逃避することしかしていません。

現実から逃げたいがために、死ぬ利点だけが自分を埋め尽くしました。

その過程で自殺未遂もしました。

私の両親などは、なんとかしようと頑張ってくれていますが

生きることに何の価値があるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

やりたいことの為に誰も生きていない

謎のDD様

釋 慧心と申します。

拝見させて頂きました。

タイトルには少し厳しい表現をさせて頂きましたが、

生きることのメリットはまだまだ貴方にはこれから活躍の場が沢山あるでしょうから、

そういう社会生活や、結婚したならば、結婚生活、子供が出来たなら親という役割を果たす。

そのような営みを通して、得るメリットもあるでしょう。

しかし、それらは、あくまで先のことですし、貴方の基準にそれらが合うかどうか分かりません。

合えばメリットですし、合わなければデメリットでしょう。
仕事、就職、結婚、子育て、全ての事象は、私の都合で、メリットにもデメリットにもなります。

ただ、一つ変わらないことがあります。

貴方が居なくなることのデメリットです。
少なくとも、貴方のご両親にとって自分の命を絶つよりも大きなデメリットです。
言い尽くせない大きな悲しみです。

逆に言えば、貴方が生きていること、今そこに居ることは、どんな素晴らしいことよりも、ご両親にとって大きなメリットです。

貴方が存在することが、ご両親にとって、何にも代え難い慶び、何にも代え難い生き甲斐です。

子供の嘆きは、子供以上の親の嘆きです。
子供の慶びは、子供以上の親の慶びです。

貴方のご両親の慶びは、貴方の祖父母の慶びでもあります。

貴方から10代さかのぼれば、親の数は1000人を超えます。

貴方がそこに居るだけで、ご両親が慶ばれるということは、

貴方が居るだけで、今は仏となられている1000人以上の親、仏様の掛け代えのない慶びになります。

誰も自分のやりたいことの為だけに生きている人なんておらないですよ。

親や、仏の願いの中に生かされている尊さを思い知らされ、
生かされたいのちを今日一日精一杯生ききることが私達の責務です。

そう思うてくださいね。

(貴方を笑顔にしようと)何とかしようと頑張ってくださる有り難いご両親を大事に生きてください。

いま生きるとはそういうことです。
貴方が生きていること自体がメリット。
貴方にしか出来ないことです。
とてつもない大きな価値です。

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浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
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既に死んでいるのではないですか?

お釈迦様は言いました。
「努力しつつ生きる人は死ぬことがない。
怠けつつ生きる人はすでに死者に等しい。」

あなたは既に死んでいるのではないですか?

今日からは生きてください。

あなたにできることを、精一杯頑張ってください。
あなたのすることは、回り回ってたくさんの人の幸せを作り出すのです。
あなたの幸せも。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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因縁果の理

謎のDD様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きる意味や価値というもの、そして、死ぬ意味や価値というものも、「これです」と決定付けて言えるような実体としてはありえません。

もちろん、何もないということではなく、実体としては無いけれども、他に依存することによっては、一応あり得ているということになります。

この他に依存して成り立っているということを「縁って起こっている」として仏教では、「縁起」(えんぎ)と申します。

その依存関係にも幾つかの階層がありますが、一番わかりやすいのは、因縁果という因果関係がございます。

それは、モノ・コトにはその結果へと至らしめるための原因と条件が必ずあるということでございます。

簡単には、種という原因があって、水や養分・光という条件が調って、結果として花が咲き実が成るということでございます。

原因としての種が無いのに、結果としての花が咲くことはあり得ません。また、原因としての種があっても、条件が無ければ、結果としての花は咲きません。

原因と条件が調って結果があるのだということで、生きる意味も価値も、また死ぬ意味も価値にも、原因と条件があって結果としてはあり得ているというものになります。

ということは、もし原因と条件を変えていくことができれば、その意味や価値も当然に変えていけるということであります。

良い意味や価値としたいならば、良い原因と条件を調えてあげることが大切となります。

是非、原因としての良い動機と良い動機に基づいた実践という条件を調えていくことにより、生きる意味、価値も良い意味、価値にして参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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