道徳の教科書について
お忙しい中、申し訳ありません。
心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。
昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。
バスにある若者が乗ってきました。
若者は優先席に座りました。
次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。
別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。
若者はうつむいて座っています。
お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。
次の瞬間、乗客たちは驚きました。
若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。
乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。
私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。
あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。
お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。
このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こちらの思い出のほうが好きです
10年くらい前のことですが、特ダネで六十歳以上の人へアンケートをしていました。「席を譲って欲しいか?」これに72%の人がNOと答えたそうです。「高齢者に席を譲れ」という常識は、本当に譲られた人への思いやりになるのでしょうか?
さて、ある日、私は新幹線の自由席に乗っていました。1番後ろ、通路側の席です。すると2、3駅進んだところで和服をお召しになったご婦人5名乗って来ました。4人は還暦を過ぎた頃でしょうか。そしてもう1人は、その4人に「先生」と呼ばれていました。顔には多くのシワを刻み、髪は見事な銀一色、しかしながら背筋はピシャッと伸び、足の運びもなめらかな、日本舞踊や茶華道か何かの伝統文化によって長年培われたであろう確かな芯を感じさせる女性でした。
私は軽く腰を浮かせて「座りますか?」と伺いました。私は必ず先方の希望をたずねてから譲ることにしています。先生は「次の駅ですぐ降りますので」と遠慮なさりました。まわりの女性がたは「せっかくですからお掛けになればよろしいのに」と口々におっしゃっていました。
それを見ながら挙動不審にしていた大学生くらいのお嬢さんが勇気を振り絞り、「あ、あの…座ってください」と、か細い声を発しました。先生は座りませんでした。
すると今度は働き盛りの恰幅の良いビジネスマンが元気よく言いました。「ちょっと俺さ、タバコ吸ってくるからその間座ってなよ!5、6分ですぐ帰るからさ。」先生は「そうですか、それではその間、あなたの席をお預かりしておきましょうか」と、ビジネスマンが帰って来るまでの10数分間座っていました。そして、その周りにいた全員が小さく微笑んでいました。
席を譲るという行為は、誰が立っていたか誰が座っていたかという『結果の問題』ではありません。『高齢者』や『若者』という属性を見るのではなく、今、目の前にいるアナタと私が向かい合いことが大事です。そこで心のキャッチボールがあってこそ、心が晴れやかになる善意となります。そして善意は善意を呼んで、皆が幸せになります。
お年寄りだから譲る、若者だから譲れ…これはお年寄りにせよ若者にせよ、目の前のその人に向き合っていないから、どこか物足りないモヤモヤとした引っかかりが残るのです。そのように属性ばかり見てその本人と向き合わない姿勢こそが、実は人と人との繋がりを希薄にしているのではないでしょうか?
”誰か”とは、自分のことである +お詫び
なるほど。
まず、このお話には矛盾がありますね。
「若者がバスに乗ってきた」とある。若者がバスに乗ってきた時点で、若者の足が不自由な事に誰も気づかなかったのか?って事です。また足が不自由なら松葉杖など持っているはずです。
まあそれはおいといて(笑)
あなたの質問中、ちょっと気になる事があるので、先にそこを書かせてもらいます。
「誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」は誰に向けられた言葉でしょうか?文脈から「足の不自由な若者」に向けられているようにも読めます。もしそうだとしたら、障害のある方に対する差別的な考えとなります。誰にもバスに乗ったり優先席に座る権利はあります。
さて私は毎年「高橋書店」という出版社から出している手帳を使っていますが、この会社では、毎年「思わず手帳にメモしたくなった、身近な人の名言・格言」を募集し、大賞を決めています。
平成18年、「”誰か”とは、自分のことである」という言葉が「エントリー賞」を受賞しました。
この作品には、下記のようなコメントがついていました。
「昔、学校の掃除の時間でのこと。その日はあまりにも寒くてバケツの水を誰も取り替えに行きたがらず、いつまでも泥のような水で雑巾をゆすいでいた。皆、誰かが行けばいいのにと思っていた。すると先生は全員を叱り、黒板にこの言葉を書いた。その後、この言葉のおかげで私は何事も嫌がらずにできるようになった。(後略)」
こんなお話でした。なるほどなぁ。気になったら自分が行動すればいいんです。
あなたの質問にあるお話のポイントは、
『別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。』
の部分だと思います。自分は座っていて「誰かがゆずればいいのに。あそこに若者がいる。あの人がゆずるべきだ」などと勝手な考えをしているのは良くないよ、って事だと思います。気がついた、あなた自身が席をゆずりましょう、って話だと思います。
いかがでしょう?
追記 お詫び
「誤解されたくなければ...」の対象の件、私の読み誤りで失礼をしました。でも私の勘違いで良かったです。
丁度、昨日の事です。
あおむし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
丁度、昨日の事です。
子どもを保育園に迎えに行った帰りに、お寺へ向かう坂道に入るところの信号で、前の車の方と、ヨボヨボの男性のご老人が車の窓越しで何か話をしているようでした。道でも聞いているのかと思いましたら、次に、困ったような顔をされてこちらに来ました。
何だろうと窓を開けると、乗せてほしいと。
さて、ここで、あおむし様は乗せてあげますでしょうか。
拙生は、前の車の人は恐らく断ったのでしょうが、信号が青になりそうでしたので、理由を聞く間もなく、とにかく乗ってと言って、乗ってもらいました。
何が乗せる判断となったのかは、相手の眼でした。
本当に困って、助けを求めているという眼の訴えで、その人を信用しました。
乗りながら理由を聞きましたら、軽い熱中症になり、坂道を歩いて帰れるほどの体力がもう無かったのですとのこと。
そこから約一キロほどになる自宅のマンションまで送ってあげました。幼い息子も息子なりに状況を察してか、その方を「バイバイ」と言って快く見送ってくれました。
正直、正解は無いでしょう。いずれも仕方がないと言って言い訳を言えば済むような話です。
問題は、やはり、とっさの時にどう判断して真摯に事態と向き合えるかになると、ふと思いました。
もし、拙生の判断が誤っていたら、もしかすると事故や犯罪に巻き込まれていたかもしれません。ですので、不審者として断るのも、もちろん、正解でもあります。
まあ、どちらが正解かは、やってみなければ分からない、結果が出ないと分からない、あとは、どう真摯に向き合うかであるのではないかという感じでありますかね。
ただ、それも善意の押し付け、独り善がりの押し付けにならないように、また、仏教的には、見返りを期待したりしないようには、したいところでございます。
川口英俊 合掌
陰口が問題なのだなと思いました。
大慈さんがおっしゃっているのと同じように、キャッチボール、向き合うということが大事なのだなと思いました。3人とも「先生」と向かい合って会話をなさっている。それでも座ってもらうのは容易ではない場合もあるのですね。
対し、あおむしさんが引用なさった話では、席を譲れ譲れとおっしゃっている方々は誰もその若者と直接的に会話をしようとなさっていない。向かい合わず会話しようとせず、あさっての方向に話して、陰口を言って、それで若者を動かそうとしている。そこが問題だなと思いました。
直接会話しようとしない人に対して答えることはできません。誰であれ「わたしは、あなたが席を譲れば良いと思う、なぜ譲らないんですか?」と聞かれれば「俺の勝手だ!」とか「わたしは足が不自由です」とか「いま猛烈に眠くてごめんなさい」とか「気づかなかった!(みえみえ)譲ります!」とか「しかるべき理由があって座っていますが今は説明したくありません、すみません、どうかご理解ください」とかの反応ができますが、陰口だと、どうにもならないです。
わたしは、そこが問題だと思いました。
ときどき、席を譲る・譲らないという話に限らず、この話に出てくる若者みたいな感じの立場の人に「なんで譲らないの!?」的に詰問的に聞いて「実は…」と答えられ「失礼しました!」と返して「いえいえ、いいんですよ」的に返してもらった、ということは何回かあります。たんび「なぜ自分は決めつけてしまうのだろう?人それぞれ事情があるのに…」と思って反省しますが、なかなか生かせません。ということは、「決めつけ」も問題かと思います。すみません。
優先席、座ってください。聞かれなかったら無視するしかないように思います。すみません。わたしみたいに決めつけ聞いてくる人から聞かれたら、もし余裕があったら、丁寧に答えてくださると、嬉しいです。
そういえば、大野更紗さんの『困ってる人』にも、変わった病気だから優先席に座った方がよさそうなのに、見た目は元気そうなのでやっぱり誤解を怖れて優先席に座らないという彼氏の話が出て来てました。
質問者からのお礼
たくさんのお答えをありがとうございました。
ずっと、誰の視点で物語を読み進めればいいのか困惑しておりましたが、
お坊様方のとらえ方を教えていただいて、胸のつかえがとれた思いです。
光禪様
ご指摘ありがとうございます。
「誤解されたくなければ~」という言葉の主語は私です。
足の不自由な若者が優先席に座るのは当然ですし、この物語の若者が次からどのような気持ちでバスを利用するのかと考えるたび、いたたまれない思いがします。
どのような方が優先席におられるのを見かけても、体調が悪かったり事情があるのかもしれないと思っております。
外からはわからないこともたくさんあると思います。
このお話を読んだときは、他の乗客の方の考え方について、そんなふうに感じる人もいるんだ…とショックをうけてしまいました。
そして、優先席を利用するのが非常に怖くなってしまいました。
石田様
丁寧なご回答ありがとうございました。
勇気を出して(笑)必要な時には優先席を利用させてもらおうと思います。
そうでないときは、どの席を使っていても大慈様のお話の方のように、
さりげなくスマートな気遣いができるようになりたいと思います。
光禪様
追記くださり、ありがとうございました。
とても暖かでお優しい方なんだろうなと感じ、暖かくなりました。