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両親と暮らすのが辛い

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

私は家族4人で実家で暮らしています。

父は一緒に暮らしていても
一言も話しません。
私は父ときちんと話した
記憶がありません。
妹も私と同じ状況です。

数年前に父は
精神疾患にかかっています。
なので普通の精神状態ではないのは
わかっているのですが
父と家の中で会うのが息苦しいです。

また母も
人の感情を読み取るのが下手なので
人が傷付く言葉を悪気もなく言ってきます。

そして母は家事をするのが
嫌いで下手くそです。
事あるごとに家事をサボろうとして
私にやらせようとします。

私が家事をすると
正確にやったかを疑い、
母自身家事が上手く出来ないのに
私が上手く出来ていないと
文句を言ってきます。

1番良いのは私が
家から出ることなのですが、
奨学金を借りて大学に行って
お金に余裕がないので出来ません。

大学を往復で5時間かけて
行って疲れているのに
家でも苦しくとても辛いです。

生活が出来ているのに
贅沢なことを言っているのは
重々わかっています。

ですがこの状況を
まだ変えることは
出来そうにないので、

少しでも気持ちを楽になれる
助言して頂けると幸いです。

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

アナタが見ているのは親も生活も「一面」だけかもしれません。

人というものは沢山の面をもっているサッカーボールのような多面体です。
たとえば⚽サッカーボールも沢山の面がありますが黒い面だけを間近でみると黒いところしか見えません。だからといってサッカーボールは全体が黒いでしょうか?いいえ、白い面もあります。
白い面だけ至近距離でみると白く見えますが、サッカーボールの全体が白いでしょうか?NO、黒い面、ブラックな一面もアルよ。我々僧侶もネ。ぬひひ。
丸くて、蹴飛ばされて泥んこまみれ人生を歩んでこられたボールが我々人間ですから泥のついた面も当然あります。
黒い、白い、泥んこ面。それだけでサッカーボールというものを表現できたでしょうか。
私はサッカーボールを鼻でモロ直撃で鼻の軟骨が曲がりましたが。
だからと言ってサッカーボールは凶器でしょうか?いいえ、子どもにとっては楽しい遊びで、キャプテン翼くんにとっては「ボールはトモダチ!」です。
⚽ボールは丸いです。転がります。良くはずみます。みんな夢中になります。ギャンブルにもなります。ウマい人は他の地味にスポーツより注目されます。でも広い所でないとできません。
ここでいうサッカーボールとはあなたが出会っている物事やご両親の事です。(サッカーボールかい)
あなたは親の黒い所、悪いところ、自分にぶつかってくる面だけを至近距離で見ているだけで全体がみえていないのです。だから丹下の鼻が曲がったようにへそ、ものの見方が曲がるのです。
サッカーボールにもパンダ🐼にも黒い所がありますが、白い所も、可愛らしい所だってあるはずです。
細部を見ず、全体を見ましょう。⚽
あなたが親や生活というサッカーボールの百面体の中で良い面を見つけ出すことで、負のイメージを無くすことができるでしょう。
物事を一面的にしか見られない迷いの視点から離れて、正しいものの見方、仏の正見にナイスゴールします。
五時間通学も観方を変えれば自分のことがやれる時間、休める時間。
家事はあなたの主婦スキルを手際よく高めるチャンス。いきなりできるなんえいませんから。
母ちゃんは母ちゃん。あなたはあなた。
                                                                                                                        

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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