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不殺生の努力について

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私は統合失調症で、下半身まひの障害者なのですが、過去に大量の殺生をしてしまいました。
そこで仏教について調べ始めたのですが、今度は不殺生の戒に囚われてしまいました。
病院にはちゃんとかかっていますし、薬もちゃんと飲んでいます。
しかし不殺生を守ろうとした結果、病院にも、法要にも、とにかく外出することができなくなってしまいました。
それどころか、車椅子の私には、後方も足元もよく見えず、タイヤの足回りなどは完全に見えないのです。これではいつ虫達を殺してしまうかわかりません。今では、外出はもちろんのこと、部屋で身動きすることすら困難な状態です。
完全な不殺生などありはしないと、承知の上での質問ですが、せめて無意味な殺生を最小限におさえたいのです。しかし、この「最小限」というのは、どの程度まで努力すべきなのでしょうか。
僧侶の皆様は、どのくらいまで気を付けていらっしゃいますか?
外出をしない雨季とは、いつぐらいまででしょうか。雨後も虫達は多いですよね?
車と歩道を行くのとでは、どちらを選ばれますか?
お弁当の配達を頼んで、もしその配達員の方が殺生してしまったら、それは私の責任になるのでしょうか?
また、薬の陰には実験動物の犠牲がありますが、薬を飲むのは不善行ですか?
夜間、電気をつけると虫達が集まってしまいそうで、電気をつけるのが怖いのです。

統失ゆえに極端な考えをしてしまっているかもしれません。
しかし本当に苦しんでいるのです。
どうかアドバイスをよろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大事なのは観察力と感謝力

道端を2匹の蟻が歩いておりました

一方を貴方は気づかず踏んでしまい

一方を貴方は気づいていながら踏みました

さてどちらが悪だと思いますか?

不殺生に囚われすぎるとお釈迦様が本当に言いたかった事が見えにくくなってしまいます。

よく考えれば考えるほど厳密には殺生が絡んでいないものなんてないとも言えます。

道路一つ作るにしてもどれだけの犠牲があるでしょう?

川の水をいつも飲めるようにと作ったダムのせいでどれだけ虫けらが死に

またその後育まれたはずの下流域の魚が消えてしまったりしますよね。

ですが私たちはそんな事には注意せずに車を走らせ水を頂戴し生活をしています。

しかしこれらを意識するためにはmotsさんのように観察力が必要です。

そして、改めてその存在に感謝する事が大事になります。

さて先の蟻の殺生の話に戻りましょう

私達人間の体はあらゆる命を頂いて保たれていますが

仏教的にはそれぞれの命に注意深くなり慈しみを感じる事に重きをおきます。

ですから「気づかずに踏んだ」が悪いという事になります。

あまり気に病まなくて良いのですよ

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山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
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苦を離れるために戒を実践しましょう

タイ仏教系の上座部仏教で修行をして強く感じましたが、日本では戒がひどく誤解されています。お釈迦さまは99の殺人を犯したアングリマーラという人を弟子に迎え、不殺生の生き方を教えました。なぜでしょうか?戒とは過去にさかのぼって悪行を探す減点方式ではなく、今、悪を離れることができことを喜び、将来も戒をたもとうと願う加点方式だからです。仏教の目的は「苦から離れること」にあります。仏教の戒も同じです。戒に囚われて身動きができなくなっていらっしゃるなら、間違いなく、その不殺生のあり方は間違っています。減点方式で不殺生を考えないようにしましょう。

千字のhasunoha回答では解説しきれませんので、『Samgha JAPAN』(サンガジャパン)という雑誌の15巻、「戒律」特集を合わせてご覧ください。motsさまに必要な情報がたくさん書かれております。

さて、不殺生とは本来、『死なせたという結果の禁止』ではなく、『殺意の禁止』です。
ゴキブリが出ました。新聞紙を丸め、タンスの裏まで追いかけて絶対殺すマンをするのは明確な殺意がありますね。その殺意は怒りの延長線上であり、自分自身に苦を発生させています。
しかし、例えば寝ている間に寝返りをうって虫を潰してしまっても、殺意はありません。私が修行をした僧房は窓ガラスはなく、窓枠から1cmくらい隙間のある網戸があっただけのもので、東南アジア特有の森の中でしたから夜に寝ると毎晩必ずたくさんの虫を潰してしまいます。それについては何も言われませんでした。
車椅子での件も気付くことができたなら避ければよく、後輪で気付かずに踏んでしまったことまで気に病むことはありません。ただ、懺悔(さんげ)は大乗でも上座部でも共通の大切な修行ですので、実践なさると良いでしょう。

雨季は日本とインドでまったく別物ですので考えても仕方がありません。日本では用事のない夜間外出は控えるくらいに考えてはいかがでしょうか。
配達員さんや薬の開発者さんの殺生は、その人達自身の事情ですのでmotsさまが考えるべきではありません。戒は自分自身の努力です。

最後に、一番大切なことなのに字数を割けませんでしたが、殺生に対する薬は、前掲書の言葉で言えば「慈しみ」(p.16)であり、禅の言葉では「活かす」ことです。この薬がどんな経緯で我が手元に届いたか…よくよく感謝して飲みましょう。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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