心の中で南無阿弥陀仏してもそれは称名念仏ですか?
はじめまして。こんばんは。
私は失声症の時があったり、肺に持病があったりで、口で南無阿弥陀仏と称えることが苦しいことがあります。
こういうとき、心の中で南無阿弥陀仏と称えているのですが、法然上人や親鸞聖人が大事にされた「称名」念仏ではないので、何か違うと思ってしまいます。
念仏が好きなので、たくさん念仏をしたいのですが、身体的に念仏ができなくてつらいです。
①心の中で念仏するのは、法然上人や親鸞聖人はどう仰っているのでしょうか?
②心の中で念仏するのは、浄土真宗的にどのような意味合いがあるんでしょうか(浄土真宗の念仏は信後の御恩報謝だとされていますが、心の中でもいいのでしょうか)
③口に出す念仏より心で思う念仏は劣っているのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
念声是一。
心で阿弥陀仏の名前を念じることができれば、それで良いのではないでしょうか。
しかし、心は不安定で制御しにくいものですから、口で(物理的な肉体で)念仏するという制御しやすい行為でもって、念をサポートするのではないでしょうか。
ですから、必ずしも声に出す必要はないと思います。
声に出す場合も、自分の耳に聞こえる大きさであれば充分なのです。
「念声是一(ねんしょうぜいち)」という言葉があります。
声に出すことと念じることは同じ。
心で念じることができているなら、声に出しているのと同じではないでしょうか。
声を出せない人も声を出しているつもりで称えたら阿弥陀様はその声を聞いてくれています。
また法然上人は「一度称えるだけで救われる。その嬉しさのあまり思わず何度も称えてしまう。」と言われました。
声を出せる時は声を出して、声を出せない時は無理をせずヒソヒソ声でもいいし口だけ動かしてもいい、それも難しい時は心の中で。
また、体調のいい時だけでもいいし、体調の悪い時は無理をせず、どうしてもというならできる形で。
あなたが救われることは既に確定しているのですから。
南無阿弥陀仏
なお、車の運転中に声を出して、あるいは心の中で念仏を称え過ぎると注意力が散漫して危ないので、運転中は運転に集中しましょうね。
追記
すいません。法然上人の言葉と思っていましたが、すぐに見つからないのでもしかしたら昔聞いた法話か講習会でお坊さんが話した言葉だったかもしれません。少し訂正させてくださいね。以後気をつけます。
質問者からのお礼
願誉浄史さんありがとうございます。新しい言葉を知れて、また勉強になりました
三宅聖章さん、ありがとうございます。「声を出せない人も声を出しているつもりで称えたら阿弥陀様はその声を聞いてくれています。」とはどの語録に載っている言葉でしょうか?勉強のために、知りたいです