南無阿弥陀仏と唱えるときには目は、開けるものですか閉じるものですか、それとも半眼でやるものですか?
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切なのは 手を合わせて しっかり声に出して 「南無阿弥陀仏」と称えることです。
目を閉じたくなったら 閉じれば良いし 頭を下げたくなったら 下げれば良いのです。
こんにちは、あまり意識した事ありませんでしたが私の場合は、正面を向いている時は開いていて、頭を下げる時は閉じてました。 そして頭を上げた時に目を開けてました。 他の方はどうなんでしょうね。 これからもお念仏していきましょうね。 なんまんだぶ なんまんだぶ 合掌
母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。
お坊様に質問があります。 精神的・身体的に辛い時に南無観音菩薩と心の中で唱えても良いでしょうか? 時々、内科に通院しています。
3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。
浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。 そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。
以前、死と地獄が怖いって事を質問させて頂きました。 私は悪い事をたくさんしてきました。 もちろん反省はしています。後悔もしています。でも、悪い事をたくさんしたので地獄に行くのではと怖いです。 その回答として念仏を唱えると良いと言われました。 それから忘れる時もありますが念仏を唱える事をしています。 ただ疑問に思った事があります。 もちろん反省の気持ちを込めて念仏を唱えてはいます。 もう二度としないという誓いと申し訳ないという反省の気持ちを込めてはいます。 でも、地獄に行きたくないのも本音です。 地獄に行きたくないというやましい気持ちがある中で、反省や誓いを込めて念仏を唱えることは偽善になりますか?
3年前に母を、2か月前には父がそれぞれ癌で逝去しました。 既に納骨も終わらせ実家にある墓で眠っています。 私は既婚で都内におりますが小さな仏壇を買って分骨した骨壺をお供えし、日々手を合わせてはおりますが、何か他にできることがあるのではないか?と思い、とある佛具屋で腕数珠を買って常に持ち歩く事にしています。 でもどうせなら家にある実家から分骨した両親の骨壺もあり写真もあるのでそれらを持ち込んで、その腕数珠に両親の魂、というか念仏というか、うまく書けませんが、普段持ち歩くその腕数珠に「念」を入れていただきたく質問した次第です。 もし可能ならどこのお寺(できれば都内)へでも参りますし御代もお支払いいたします。
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。 それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。 どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?
浄土真宗大谷派です。 私は、小学生の時ふざけて、お仏壇の前で南妙法蓮華経と何回かとなえてしまいました。 今となっては反省していますが、こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら極楽浄土に生まれ変わることができるのでしょうか? また、浄土真宗の念仏は信じてとなえることが重要だと聞いたことがあります。 実際、どのようにとなえればいいのでしょうか? 極楽浄土に生まれ変わる人は少ないとある記事で見ました。 まだ学生ですが、極楽浄土にいけるか不安で、毎日そのことばかり考えてしまい、勉強に集中できないし、毎日が楽しくないです。
日頃から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えています。しかし、ずっと声に出していても息が足りなくなって疲れたり、また声に出さなくても、勉強をしているときなどは心のなかで唱え続けることもなかなか出来なかったりで、法然上人の言う行住坐臥の念仏にはなかなか達しません。 一念で往生が决定するのは存じていますが私のように自力の念が絶えない者は常に念仏とともに有りたいと思ってしまいます。 農作業などだったら文字通り常に念仏をすることができたのでしょうが、現代における行住坐臥の念仏とはどんなものであるべき、あるいはあり得るでしょうか。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
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