責め立てられるような声が断ち切れません
過労でうつ病を発症してしまい、離職してから3年が経とうとしています。
ようやくWebサイトを読み漁る気力と体力が戻ってきて、仏教を学んで心がどんどん軽くなっている様子を実感しています。
お釈迦様は「みんなそう思ってしまいがちだけど、こう考えてごらん。」と仰っているように思います。しかしながら、私の育った環境では「みんなそう思ってしまいがち」の考え方こそが正しいと、学校や周囲の環境から教わってきた(かなり強力に刷り込まれた)ように思えてなりません。
例えば、
必要のなくなったものを、捨てたり売ったりするとします。そうすると「もったいない」と、むしろ非難されてしまう声がどこからなく聴こえてきてしまいます。
「もったいないの元来の意味は活用できていないってことだよ。だから、仕舞い込んでしまうことの方がよほどもったいないだよ。」などと言い返したりしてしまうのですが、相手にとっては人格否定されたかのような反応が返ってきてしまう。
(ご先祖様もそういう執着が強かった。)
職場環境でも、うまくいった時は無意識的にお釈迦的な価値観を優先していたのに(今ではそう思える)、一部の人との価値観との違いに責め立てられ続けているような想いを感じていました。
カウンセリング的には、十数年前に仲間に取り囲まれて責め立て続けた実体験(価値観の違いが浮き彫りになって)が、パワハラ・モラハラを受けたのと同じ状態になっていると分析できるようです。
(カルト的な意識が強い繋がりであった実態と、私も若かったので自分の主張にどんどん固執していってしまった事もあったのですが。)
上記の繋がりはとっくに断っているのですが、同じような存在が常に現れるのが辛いです。
諸行無常を意識すると「世の中の変化を阻止してでも、変わらないありようを継承することが伝統を守るということだ!」というように罵られているように感じてしまう。
罪は罪と認めると「仲間の罪は事実を捻じ曲げてでも正当化するのが正義だ!」と罵られているように感じてしまう。
価値観は人それぞれなので否定するつもりはないのですが、このように聴こえてくる(責め立てられる)無意識の声を断ち切ることができません。
有り難し 6
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