1ヶ月程前から漠然と死にたい気分が抜けません 仕事を淡々とこなしていると(ワンオペ、他社員不在、会話無し)じわっと「死にたい」と言う気持ちが出てきます 仕事は成果は評価されず、残業することだけが評価されます 昇進の可能性はありません 実際やろうとすれば誰も見ていないし簡単に実行できます でも、失敗したら脳障害が残って嫌だとか、死ぬには少しもったいない、とかも考えて何となく生きています 死にたくなくなるにはどうしたらよいでしょうか? ただの我が儘かもしれませんが、お伺いします
はじめてお話させていただきます。よろしくお願いいたします。 何年も希死念慮に抗ってきました。 死んではいけない。生きて責任を全うしようという意思はあります。苦しくて涙が出るのは、死にたいという気持ちを死んではいけないという考えで打ち消そうとするときです。 気持ちを押し殺さなくても、終わりの準備をしながら生きればいいと己に言い聞かせてここまで長らえました。生命保険、連絡先の整理、持ち物の処分、仕事のマニュアル作成……でももう頑張れそうにないのです。 愛犬に病気が見つかりました。 なぜ犬がこんな目に?私の病気だったらよかった。延命治療は苦痛では?最後まで一緒にいたい。その後は? 私の役目も希死念慮も関係ないところで、犬の存在だけは幸福そのものだったのに。 私はこのさき何十年も死ぬ準備を続けていく自信がありません。心が落ち着かず、最近は物を捨てる行為をとめられません。 その時がきたら、誰かにお疲れ様と言われたい……などと贅沢なことも望んでしまいます。お坊さんは、自死するような愚か者に労いの言葉はかけてくださいませんか? 最後まで犬に寄り添うことができたら、もう一度ここへきてお話してもいいですか?
以前自殺願望について何度も相談させて頂いたものです。何度もお手数をお掛けして申し訳ありませんが、またご相談の程宜しくお願いいたします。 私は、皆さんとの対話の末に何とか生きる目的を導き、少しずつ自らの存在と自身が存在する世界を祝福できるようになりました。ですが、自身の中で解決していない問題があります。 生の強制と自殺についてです。 私が知る限りでは、仏教は生と死という対立概念について中立の立場を取っています。生きようが死のうが問題ないような心構えを説かれているように思えるのです。私はこの考え方に大いに賛同しているのですが、その立場故に生存を無条件に強制する人たちに対して今でも強い忌避感を覚えてしまうことに悩んでいます。 私は、ハスノハ以外でも両親や友人、教授に自殺願望の悩みを打ち明けたのですが、その誰もに私に対して「死ぬな」という事を前提に説得されました。 私が、生活に不満はないがやることがなくなり、これ以上生命に執着したくないという事を打ち明けたとしても、その発想自体を幻想と一蹴され頑なに生を強制されました。 説得者の言葉からは、現実の私ではなく、説得者のイメージとしての私や、先程述べた死生観を見ているような見当違いを感じ、それ以来人を信頼できなくなっています。 断っておきますが、この方々が悪い人間とは思っていません。むしろ、自己の想像の範疇で私を助けようとしてくれる善人だと思います。しかし、それ故に彼らが生きるという事を無自覚に狂信している事実に深い断絶を感じます。この世のどんな渓谷よりも深い絶望的な断絶の向こう側に、ひとりぼっちで取り残されたような感じです。 私は、彼らのように生を肯定すること自体は問題ないと思っているのですが、生に取り憑かれ、挙句他者にそれを強制する傲慢さを拒絶せずにはいられません。 生きたいと決心した人が快く生き、死にたいと決心した人が悔いなく死ねる。そんな世のあり方を私は望んでいますが、この考え方に取り憑かれた私もまた傲慢なのでしょうか。 そもそも、仏教の教えを信じる時点で私は傲慢だったのでしょうか。
いざとなったら死ねばいいと考えると心が楽になるのですが、時々、いつか死ぬなら今死のうかなという気持ちが湧き上がってきます。 ネガティブな感覚ではなく、散歩に行きたいな〜と思うくらいの気持ちで自殺を実行しそうになります。その気持ちを自覚した時点でダメだダメだと慌てて自分を止めていますが、自殺しようとする自分と止める自分が別人のようで、自殺しようとする自分が時々意識を支配するのが怖いです。自殺しようとしていなくても、時々、自分が自分でないような、現実味の無い感覚があって怖いです。 私はいざとならなければ死にたくないです。これからの人生を頑張りたいと思っていますし、頑張れば上手くいくと自分に言い聞かせています。でも、気がついたら死のうとする自分がいるんです。どうなっているのかわかりません。死のうとする私を止めるにはどうしたらいいですか。
以前から希死観念について相談させて頂いている者です。何回もお世話になり申し訳ありません。 これまでの相談で、私は生きる理由が無いにも関わらず原始的欲求や死の苦痛に対する恐怖、なけなしの人情などに屈して死ねない自分に苛立ってきました。そんな中で「人の煩悩、ひいては人という概念に打ち勝つ」という人生で初めての目標を持ち、それを自殺によって達成しようと思いました。 しかし、数々のご相談で皆様になだめられ、煩わしさを感じながらも踏み止まる間、ある偉人の格言に出会いました。 「戦いは万物の父である」 古代ギリシャの哲学者ヘラクライトスの言葉です。 彼は「存在する」という万物の本質を「空間や構成要素の奪い合い」つまり戦いと解釈し、万象を陰陽や男女といった対立概念で説明した人です。 しかし、彼は決して酷薄な考え方をしたわけではありませんでした。何故なら、彼の言う戦いは、相対する存在を断滅する事だけではないからです。 彼は、対立概念が共倒れしない理由として「調和」というあり方を提唱しました。対立概念が居場所を取り合って争ううちに譲歩の仕方を学び、釣り合いを取るというあり方です。それは、片方が死滅するまで終わらぬ死闘ではなく、鎬を削りながらも相手を尊重する世界一優しい戦いです。 私は、生命の本質に抗う自分を戦士として鼓舞し、死という選択肢がありながらその恐怖に屈する人々や頑なに生を説い続ける皆さんに辟易していました。そうしていれば、生に抗う自身が特別に見えたからです。 しかし、存在することは戦うことだと説くこの格言を言い換えるとこう表せます。 人間は生きるだけで戦士である、と。 生に屈したと思われた人たち、生を説く皆様は死に抗っていました。戦う相手、戦い方が違うだけの戦士だったのです。 仏道を進む皆様はことさらに凄い。不完全な自身を抹殺対象ではなく研鑽の相手として受け入れた上、他人に寄り添って共に戦っています。自分を殺そうとした私と違い誰も殺そうとしない。 世界一優しい戦士だったのです。 私は戦い方を間違えていました。今やるべきことは死を恐れて理想から遠ざかる自身を受け入れ、研鑽し続けることです。 前置きが長くなり申し訳ありません。 私は皆さんのように、万象と調和する戦い方をしたいです。 世界一優しい戦い方の心得を教えて下さい。
相談失礼します。 私は23歳の男です。 中学生に入ったくらいの頃から自分の心と体の性別になんとなく違和感を覚えるようになりました。それは歳をとるごとに増し、今現在の心の割合は男3女7くらいです。 やはり大人になるにつれ心とは裏腹に段々と男らしい体になっていき、いつしか自分の男の身体に強烈な嫌悪感を覚えるようになりました。最近ではなんとなく髪も薄くなったような気がして、自分が男だということを突きつけられたような気がして余計に気持ち悪く、精神的にも参っています。 母には相談でき、そのことも理解してくれますが、いくら母に相談したところで身体が男ということが変わるわけではありません。 性転換手術を受けてもガタイが良く、体毛も濃く、濃い目の顔なので女性にはなりきれません。 もうこの先生きていくのが辛く、自殺を考えています。母にも自殺のことを相談しましたが、本気だと思っていないらしく、毎回「それだけはやめて。」とだけ言われ、受け流されます。 これから先もこの男の体で生きていくのは無理です。生きるのが怖いんです。未来という途方も無い時間に足がすくんで進めそうに無いんです。 今まで真面目に優しい人であろうと生きてきたつもりです。なぜ私はこんな辛い思いをしなければならないのでしょうか?私は何が悪いことでもしたのでしょうか? そして、自殺はいけないことなのでしょうか? 情けない話ですみません。 長文乱文失礼しました。
いつもありがとうございます。 このところ消えてしまいたい気持ちが浮かんで仕方ありません。希死念慮というものか考えます。 病に苦しむ人がいる中、こんな気持ちを持つことに罪悪感があります。 ですが、少しの仕事と家のことは何とかこなしていますが、やりたいことも欲しいものも将来の希望も思い浮かびません。 強いて言えば眠りたいのですが、夢見が悪く、夜になっても眠りたいけれど眠りたくなくて、睡眠不足です。 日々のことだけで疲れてしまい情けなく思います。 一つ問題を片付けるとまたすぐ問題が出てきて、それはお金が掛かることだったり人が絡むことで、死んだらお金も人も関係ないのだからイライラしても仕方がないのに、イライラする自分は消えたいと言いつつまだ生きるつもりなのかと嫌になります。 精神的なものかと市販の漢方も飲んではいますが効果はよく分かりません。 マラソンを走ってて、疲れてやめたくてもゴールまでやめられない気持ちです。 情けない悩みで申し訳ありませんが、何か少しでもアドバイスを頂けるとありがたいです。
こんにちは。いつもお世話になっております。 内容ですが、タイトル通りふとした時に死にたくなる時があります。 厳密に言えば、生きてる意味が分からなくなります。 誰かの何かになれているわけではない、アルバイトも部活も友達も私がいなくてもちゃんと回る事実。 そんなことを考えると、自分が生きていることに意味を感じられなくなります。 そう思う頻度は頻繁ではないし次の日になれば大体無くなっています。 少し考えれば小さな幸せもちゃんと摘み取っていけるくらい周りから幸せを頂いているのに、申し訳なくなります。 私の考えてることは多数の考えとは異なるものなのでしょうか。 また、生きている意味とは何か、という問いについてのご意見お願い致します。
こんにちは。ご閲覧ありがとうございます。 私は自分に呆れてしまって、自分に価値が見出せなくて、自殺を考えています。 理由を書くと千字を優に超えそうなので控えさせていただきます。 しかし、親は愛情いっぱい育ててくれたし、私を愛してくれる恋人もいます。だから今まで思いとどまっていましたが、 今はもう自分勝手と言われようが誰が悲しもうが消えてしまいたいと思ってしまいます。最低だとは分かっています。 でも、親や恋人のことを考えるとやはり死ぬことは良くないとは思います。しかしそれ以上に今存在しているのが本当に本当に辛いです。ずっと葛藤しています。 どうか、自殺願望を打ち消せるような考え方をご享受して頂きたいです。 拙い文章ですみません。
双極性障害20年 子なし主婦です。 主人から もう躁のときは、つきはなして、 鬱になると頼ってくる。 このままだと自分が潰れる。 自立して生活してくれ。 と言われました。 離婚ではないけど、今の状態では 一緒に暮らせないと言います。 先生には、薬は今の状態から動かすより、 自分の習慣を変える 朝きちんと起きる。 朝日を浴びる 外に出て散歩などする。 全部正しいことなのですが私にはできず、 ただ布団の中で過ごす日々です。 いまは、主人の実家に世話になっています。 高齢なのもあって、 早く出ていかなければなりません。 お義母さんからもそう言われています。 先生は病院の単身寮に入って デイケア、ナイトケアに通うように 提案してくださったのですが、 いざ体験をお願いしたものの、 引きこもり状態の寝たきりでは 体験さえ 不安でなりません。 ずっとずっと希死念慮が離れないのを 先生にもいえずにきています。 いえば、入院になるから。 今の私には、勇気が足りないのでしょうか? どうすれば、勇気をもてるのでしょうか? ずっと離れない希死念慮を抑える事ができるのでしょうか? 1人になるとより考えが増しそうで怖いです。 まとまりのない文章ですみません。
自殺願望が芽生え始めたのは、記憶では小学4年生頃からです。それは高校3年生頃まで続いていました。 理由は、母のしつけが自分にはとても辛く感じていたためです。(母子家庭)母が仕事から帰ってくると機嫌が悪く、威圧的であったり、嫌味であったり、怒鳴るような叱り方を頻繁にされていました。 大学では一人暮らしで連絡もほとんど取っていなかったので、しつけが辛いと感じることは少なくなりました。その頃から、自殺願望から希死念慮に変わったと思います。 自殺未遂は中3〜高2までリストカット、大学〜2回首吊りを試みています。首吊りの2回は、もう十分人生楽しんだから、嫌なことが起こる前に死のうという気持ちからです。 昔から友人は多く、恋愛も人並みにしていたので、楽しい生活ではあったのですが、どんなに幸せな毎日でも、可能であれば今すぐに死にたいと思い続けています。 特に死にたい理由は思い浮かびませんが、こんなにも恵まれているのに死にたいと思ってしまうのが嫌で死にたい。と思うこともあります。 たまに理由もなく死にたすぎて涙が出ることもあります。 まとまりはありませんが、こんな死にたいLIFEを送っています。ですが、できることなら死にたいと思う気持ちを失くしたいです。 よろしくお願いします。
嫌なことがあったり、辛かったりすると「あぁもう死にたい」と口に出してしまう癖がどうしてもやめられません。 家庭環境も恵まれており、少ないながら友達もいて、特に死にたくなるような原因があるわけではないのですが、死にたい気持ちが頻繁に湧き上がりいつも憂鬱とした気持ちになってしまうのです。 いつも全て自分が悪いような気がして、誰も自分を責めていないのに白い目を向けられていると思ってしまいます。 もともと人付き合いが得意な方ではないのですが、他人といると死にたい感情がさらに増幅してしまうのであまり外に出たくないと休みの日も外出することなく家の中で過ごすことが殆どです。他人は自分で思っているほど私に興味なんて抱いていないとわかってはいるのですが……… 親からは「鬱なのでは?」と言われるのですが、病院に行ってはっきりと告げられるのが怖くて病院に行くこともできず、ますます自分がおかしいのではないかと不安になっています。 「死にたい」という感情との向き合い方、少しでも希死念慮が軽くなる方法をお教え頂けたら幸いです。
この「飛び降りたい」と思う感情は最近、洗濯物を干したりなど2階でなにかしているときにふっと頭の中によぎります。自分自身この考えが今までなかったので、「何考えてるんや俺」と思い正直怖いです。 このように思うことは一般的に思うことなんでしょうか?皆様のお言葉をお聞かせください。
初めて質問を送らせて頂きます。暗いお話になります。 派遣先で仕事中、もしくは、電車に乗っている時、人混みにいる時、ふと妄想してしまう時があります。 自分が富士の樹海で首吊りをしたらどうなるのか、足に枷を着けて海の沖へ飛び込んだらどうなるのか、など。そんな事を唐突に思ってしまう時があります。ですが、死にたいとは思っておりません。 そんなこと全く妄想しない時期もあります。甘えなのでしょうか。 自分でもよく分かっておりません。 もし、お言葉添え頂けるのであれば、この状態は甘えなのか、別に原因があるのか。回答して頂けると有難く思います。
生きるのが辛くって、一人になると自殺ばかりを考えてしまします。 気分転換に出歩いても同じ 死ぬことばかりで頭から離れません。 自分が怖い
もう何度か相談させていただいているのですが、希死念慮が強まる一方です。 愛されて育った自覚もあるし金銭的に困っているわけでもないのにとにかく早く死にたいと毎日毎日思っています。 しかし自死する勇気はありません。 ドナーとして役に立ててほしいから飛ぶのはもったいないし吊るのも汚いし掃除する人困るだろうなみたいな… 結局なんだかんだ理由付けしてしまって勇気がありません。 病気の人には失礼ですが自分が病気で死ねればいいのにとか事故にあって死ねればいいのにとかずっとそんなことを考えてしまいます。 生まれてこなければよかった。 そのくせ普通にご飯は食べるし夜は普通に寝れるし友達と話せばそのときは楽しいし鬱というわけでもなさそうです。 たまたまカウンセラーと話す機会がありましたが、君がそう考える原因が理解できなかったと言われました。 この死にたい気持ちをどうしたらいいですか?
読んでいただきありがとうございます。 未来に楽しみがあるから今がどれだけ苦しくても頑張れる、そういう方って結構多いと思います。ですが私にはどうしてもその未来が明るいものにも楽しいものにも思えないのです。幼い頃は自分が10年後に生きている姿すら想像できない、生きていても幸せな未来な筈がないと考えてしまい、未来というものに希望を持てた事がありませんでした。 厭世観と希死念慮が昔からありましたがどうすればその二つを消すことが出来るのでしょうか。その二つを消すことが出来れば未来が良いものだと思えるのでしょうか。 お知恵をお貸しください。よろしくお願いいたします。
今朝うちの電車(私)の始発の時間が13分遅れました 毎日6時に雨戸を開けたり新聞を取りに行きます そして毎日7時から掃除を始めます それが私が7時前にうたた寝してしまい遅れてしまいました そしたら部屋の扉を「トントントン」と叩き「起きてるんか?」と父が… 父は7時前にトイレに起きてまた寝て 8時に起床します 母は8時30分に起床します 始発が13分遅れたので 「起きてるかチェック」が入りました うーん… 電車が遅れたら多くの人たちが迷惑します 最近何かと電車に飛び込む人が増えたことで 余計に神経質になっているのかイライラがたまっているのか 線路内等で死人が出たら ネットの書き込みには必ずと言っていい程このツブヤキが… 「マジで止めて!」 「迷惑きわまりない行為!」 うーん… 確かにたくさんの人たちのスケジュールが狂うし鉄道会社にも損失が生じますが… その… 尊い命が1つ失われているのに… もしその自殺したのが自分の家族や友達でも同じことが言えますか? そんなことを考えたりしています でもそんな私も自殺希望者で 何度「今だ!」と思ったことか… 何度も何度も耐えて耐えて… でも「マジで止めて!」の気持ちが分かるし 鉄道会社に損害賠償を請求されたら残された家族に迷惑がかかるので 長いこと長いこと無い知恵を練って練って 自殺するならコレと決めておくしかなくなってしまいました 今朝はうちの電車が13分遅れました 13分… 怒られてうたた寝したことを後悔しました… がもう起きてしまった事故なので あまり責めないでいただきたいものです お坊さまは寝過ごして迷惑かけたことがありますか? 電車が遅れることどう思いますか?
初めまして。今は浪人しているものです。 家族や友人にも恵まれていることはわかっているのですがいつからかは覚えてませんが小さいながらも希死念慮があります。 絶望しているわけではないのですが、死ぬということに対して魅力を感じているのもたしかです。 そして浪人が思うようにいってないいま、ふと自分がいないことによるメリットを考えてしまい、そのことに対してのメリットは思いついても自分がいることによるメリットが思いつきません。家族を悲しませたくないので相談も出来ないので自分が生きることによるメリットがもうわからないのです。消えることによってのメリットは思いつくのです。 確定ではありませんがナルコレプシーという病も背負っている自分に対しての将来に時々もう嫌だな、と消えてしまえたら楽なのに、と思ってしまいます。 自分に保険がかかっていて、銃が手に入っていて望む死に場所が見つかっていたら既に死の手をとっていたんじゃないか、とまで思います。 こうやって死にたい、消えたい、と考えていてもそれを実行することが様々な面で難しいことも理解しております。 また、自分で自分を苦しめてしまう性格なので、これから幸せなことがたくさんあってもふと死に惹かれると思います。そのときのためにも、生きるための考え方を教えて頂きたいのです。宜しくお願い致します。
以前のニックネームの時に、お話をした記憶がありますが、もう一度、お話させてください。 20年前に私は消防署でバイトですが勤務していた時の事です。私は、その時、死ぬことしか考えることができませんでした。 当時、流行りのように見ず知らずの人同士の集団自殺がニュースで取り上げられていました。勤務時間中に、いきなり呼び出されてテレビをつけました。今、思えば私は自殺することしか考えていない事を知っていたのです。 そして、消防士が私に、こう言いました。 「死ぬほど辛いなら、それ以上、辛いことはない。あとは這い上がるだけだ。もちろん何度も、転げ落ちるかもしれんが、そのうちに誰かが気づいて、手を差し伸べてくれるかもしれん。落ちた穴が深けりゃロープを持ってくるかもしれん。命の終わりは神さまが決めること。生きるんだ。」 また、ある時、川で溺れて亡くなった学生さんがいました。捜索は3日。でも1日目が終わったとき、諦めていた私に言った別の消防士の言葉です。 「俺たちは、草や岩にしがみついて助けを待っていると信じて救助活動をしているんだ。 しがみつく事は、みっともない事じゃない。誰が何と言おうが、しがみついてでも這いつくばってでも生きろ。」 そんな消防士にも助けられなかった命は、たくさんあります。苦しんでいるひとも、たくさんいます。 そんな消防士を私は裏切りました。私は苦しんでいる消防士を、助けを求めるひとを見捨てました。 その事にずっとずっと後悔しています。 だから、生きています。 この文章を読んで、苦しい思いをするかたもいらっしゃるかもしれません。 ごめんなさい。 ただ、命の炎を消そうとしているひとに伝えたいと思いました。 這いつくばってでも、しがみついてでも生きていきませんか? 一緒に、みんなで。 私はどうなっても良いから、みんなが笑って幸せに過ごす日がきますように。