無になりたいです。
転生などしたくありません。他者に苦痛を与え、自らもそれに悩む毎日です。
仕事をすれば余計な仕事を増やしてしまいますし、会話も成り立たないので失敗や怒らせてばかりです。
記憶も断片的になりがちなので、せっかくの救いの言葉もちゃんと心に残せないのではと不安です。
私の目指す先は命も意識も感覚も一切ない、無です。快楽など本当に必要ありません。
私が恐れるのは、死後も意識があるのではということです。死後のことがよく語られるのなら意識があるのでしょうね。
私が死後、どのような裁きが下りるかはわかりませんが、転生したくないです。本当を言えば抹消させてほしいのです。
そのような願いは邪でしょうか。
書ききれない。 地獄だろうと天国だろうと意識を持ちたくない。転生したくない。前世の業が影響するなら、これ以上迷惑をかけたくないので消滅して終わりにしたい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意識について
ゴツコラ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
無になられたいとのお気持ち・・誠に分かる気が致します。
実は拙生も、虚無主義・悲観主義から「無帰論」・「中間ニヒリズム」という論を立てたこともあり、しかも、まだネット上にも残っております。
「無帰論」
http://www.hide.vc/tokusen4.html
いまでこそ、間違った論であると認識していますが、当時は当時でそれなりに真剣だったのでしょう。
死後の意識につきましては、非常に微細な意識であり、生きている間の粗い意識とは異なり、生きている間に認識することは、よほどの瞑想修行を行った者でない限り、難しいことになります。もちろん、たまに臨死体験等でおぼろげながらにでも認識できることはあるようですが。
とにかく、死後も連続して続いていく微細な意識の赴きを、より良いものへと調えていくために、仏教では、智慧の開発や福徳の修習、善業の集積を勧めることになります。
また、全てのモノ・コトは、因縁(原因と条件)があって成り立っています。
今の意識も、死後の意識も、必ず、その前の因縁によって続いてきている意識が無いと成り立たないものであります。つまり、産まれてくる際の意識というものも、何も因縁が無いのに突然に生起して生じるものではなく、産まれてくる前における意識が無ければならないことになります。そして、また死後においても肉体・物質に左右されない意識というものが、次の存在へと向けた意識の質料因となっていくのであります。
とにかく、より良い赴きへと向けた善根(三宝帰依、菩提心、仏縁、善業など)を意識に植えつけて、しっかりと育み、微細な意識にも働きかけて、良き変容を得ていくことで、より良い次生へと繋げて参りたいものでございます。
是非、少しなりにもこれを機会に仏教にご興味を持って頂きまして、学びと実践を進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
例えば、追記
どう回答すればいいのか悩み、なかなか書けなかったのですが、幾つか思ったことだけを書かせていただきます。
先ずは徹底的な現実主義、科学信仰で生きる方法があると思います。
心は脳の働き、電気信号の一つと認識し、死ぬと脳は様々な分子に別れ、それと同時に電気信号もほとんど無くなり、心も無になる。
だから、死後のことは何も考える必要は無いし、考えても無意味である。
考える必要が無いから、生きることだけに集中する。今どう生きるか、それだけに集中する。
そういう生き方です。
もう一つは、死後も心は残ると信じる生き方です。心はどこかの浄土に生まれます。浄土で改めて、心の安らぎ(悟り)を求めるのか、あるいは無を求めるのか、そこでゆっくり考えたらいいのです。浄土にはたくさんの菩薩様やご先祖様がいます。いろんな方の話を聞いて考えたらいいのです。
ですから、今現世では浄土に生まれるように生きるのです。
浄土に生まれる方法は宗教や宗派によって考え方に違いがありますが、何れにしても浄土に生まれたいと願って生活していたなら、きっと浄土に生まれることでしょう。
他にも生き方や死後の考え方があると思いますが、思ったことだけ書かせていただきました。
何かのヒントになれば幸いです。
追記
極楽浄土を造った阿弥陀仏は誰にでもできる善行を教えてくれています。それは、南無阿弥陀仏と小さな声でいいので唱えることです。できれば毎日10回でも。思い出した時だけでも、寝る前だけでも構いません。それだけお伝えしておきます。
よき導きがありますように。
質問者からのお礼
川口秀俊様 聖章様
ご回答いただきましてありがとうございました。
お二方から頂いた意見を参考に新たな考え方に進むこともできました。
それでも行き着く先は無を選びたいと思います。普通の方であればまっとうな道を進み、来世に良い影響を残すよう努力すべきですが、私のような場合、これからどう挽回しても与えた苦痛以上の善行は積めないでしょう。
前世はどうしようもない札付きだったのでしょうか。詐欺や欺瞞で人を傷つけたのかもしれません。そんな業がついて回っているような気もしました。
けれど、人間は地獄の獄卒のような役割を与えられているわけではないので、本当の意味で迷惑をかけていると思いました。
無に帰すことは真実を見つけ悟りを開くこととは違って、あくまで苦痛から逃れるための逃げでしかありませんが、選べるのならそうしたいです。