心臓移植
12年ほど前から心臓病を患ってます。先日、お医者さんから心臓移植しか残された方法はないと言われました。子供はまだ小さいですし、まだまだやり残している事がたくさんあります。
心臓移植移植してでも生き延びたいと思うのはわがままでしょうか?仏様がくださったこの身体、臓器で自分の人生をまっとうすべきでしょうか?
心臓には魂が込められていると思っています。なので私以外の心臓で生きていくという不安もあります。今、不安で押しつぶされそうです。
先日、告知されたばかりなので、自分でも整理がつきません。
何かありがたいお言葉を頂けたら幸いです。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私もきっと同じ道を選ぶ
ユメさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
よろしくお願いします。
12年前から心臓を患っていらっしゃるとのこと。しかも心臓移植しか手段が無いとなると、かなり症状は重いのではないかと推察いたします。
そんな中、子を産み、育て、今まで本当に頑張っていらっしゃいましたね。ユメさんに敬意を表したいと思います。
話は変わりますが、臓器移植については仏教界でもまとまった結論が出ていません。おそらく僧侶によって十人十色の見解があるでしょう。一部の臓器の移植と違い、心臓移植は提供者が亡くなることが前提にありますので、非常に難しい問題です。
私としては、ユメさんを失望させる答えだと思いますが、「自分が提供するのは抵抗がある。しかし自分や家族が病気であれば、きっと生き延びたいと思い、探し求めるだろう」ということです。
江戸時代の仙涯和尚という高僧は、死の間際、弟子に辞世の句を求められた時「死にとうない、ほんまに、ほんまに」と仰ったそうです。私はこの人間味あふれるエピソードが大好きです。もし仙涯和尚が現代の方で心臓疾患があれば、一所懸命に心臓移植を求めたかもしれませんね。
「生き延びたい」というのは人間の根源的な欲求ですから、わがままと言えばわがままです。ですが誰にもそれを否定する資格などありません。私もユメさんと同じ立場なら、きっと移植を選びます。
魂については、正直に言うと分かりません。でも、移植された心臓と元の持ち主に感謝しながら生きていけば、それで良いのではないでしょうか。また、もし何か悪いことがあったとしても、その心臓や魂のせいにしないことが大切だと思います。
追伸
横浜出身なのですね。いつかご縁があってお会いできることを楽しみにしています!
我儘ではなくあるがままです。
あなたはすごいと思います。恐らく、子供が幼いということは出産も心臓の病を抱えながらの出産だったと思います。恐れ入ります。
わが子のためとは思わず、自分のために生きてください。これは我儘ではなくてあるがままです。その理由は、人のため、子のために生きることは我儘につながります。子供が素直なうちは良いですが、自分の意志に合わないときについこんなことを言ってしまいます。「あなたのために生きたのだからね。」そんなこと言われたら子供は心を閉ざしかねません。だから、自分のためと思えば、そんな言葉も発しなくなります。生きるということはいいことばかり、背負うのではなく、悪いことも、悲しみも、寂しさも、背負います。命の大切さをご存知なあなたなら、生の長所を理解できているのでしょう。
命は仏様から頂いたものではありません。ここは勘違いなさらぬように。
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む (一休宗純) この短歌にあるようにあくまで、あなたの命は母親と父親から授かったものです。
これ以上は書きませんが、自分の命が助かるチャンスを放棄するような選択だけは避けて下さい。無事、移植手術が成功し命が伸びることを祈ってます。
「捨身飼虎」の慈悲行
ユメ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
この度は、長年、心臓病を患われておられまして、もはや心臓移植しか残された方法がなく、臓器提供を待たれておられる状態であること、不安な中にて色々と思い悩まれておられる胸の内をお聞かせ頂きました。
私たちの肉体もご縁なるものにて、生きていく、いや、生かされていくための因縁(要因・条件)が調っていて、やっとこさ何とか生きることができております。
もちろん、その生かされているご縁がまだまだ紡げる良き方法があるのであれば、それを求められるのは別に悪いことでもありませんし、当たり前のことでございます。
そして、臓器移植に関しましては、浦上様も既におっしゃられていますように、提供者を取り巻く問題がございます。
しかし、あくまでも拙考え方でございますが、提供者は、他の誰かを助けたい、救いたいという慈悲・利他の動機にて、己の身体を捧げるという善行為を行う意志を示されておられます。まさにこれは究極の布施行の実践でございます。
法隆寺の玉虫厨子にも描かれている、釈尊の前世物語の一つに「捨身飼虎」がございます。それは、飢えた虎とその子たちのために身を捧げて、母子の命を救ったという話でございますが、もちろん、この話に対して、色々と後世における批判や異説があるのもありますが、とにかく目の前で苦しんでいる者、助けを求めている者をとても見過ごすことができないという究極の慈悲の現れの一つであるのではないかと存じております。
ここからは、非常に難しいことを述べますが、まさに、このことと同様に、まだもしかすると心臓が止まっていない状態であるならば、脳死状態と、現在の医学的・法律的にはなっても、完全に肉体が活動を停止していない以上は、心相続的には「生きている」という状態であると考えることも仏教的に言える場合がございます。(例えば、「トゥクダム」という状態)
それでも、少しでも完全に死ぬ前に、肉体を苦しんでいる人、困っている人に捧げて役立ててもらいたいという意志・行為は、まさに釈尊の「捨身飼虎」に準ずる尊い善行であると拙生は考えております。
誠に臓器移植の成功を心から祈念申し上げますと共に、提供者の分まで、しっかりと生き切って、感謝報恩の善徳行も少しなりとも進めて頂けましたら有り難くに存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
早速のお言葉、ありがとうございました。
子どもと一緒に走ったり、自転車に乗ったりという当たり前のことしてあげられなく、いつも子供に対して罪悪感がありました。自分ではダメな母親と思っていたので、優しいお言葉をかけて下さり涙が溢れてきました。
移植は前向きに考えたいと思います。
そして、大切な心臓をくださった方には、日々、感謝の気持ちを持って精一杯生きようと思います。
追伸 私は横浜出身なので帰国の際にはなごみ庵にお邪魔させて頂きたいと思います。
ありがとうございました。
大鐵様、ご回答ありがとうございました。
私は大きな勘違いをしていました。
全て子供や主人のため、親を悲しませないようにするためと思っていました。
「自分のために生きる」それが私自身や家族が幸せになるということですね。
両親から授かった大切な命、助かるすべがあるのならしがみついてでも、精一杯生きようと思います。
移植への道はまだ始まったばかりですが、私の周りの本当にたくさんの温かいお言葉や手助けで既に感謝の気持ちでいっぱいです。
この気持ちをずっと忘れることないよう前向きにいきようとおもいます。
本当にありがとうございました。
川口様
勇気づけられるご回答ありがとうございます。
はじめに質問させて頂いてから少し時間が経ち、移植に向けた検査、移植チームとのミーティング、移植した方の経験談など着実に移植の準備が進んでいます。
私の気持ちも前向きに考えられるようになりました。
臓器の提供をするという生前に素晴らしい決断をしてくださったドナーの方の意思、そしてそのドナーの家族の方に恥じることなく、その方のお陰で私がこれからも生きていけるという感謝の気持ちを毎日忘れることなく過ごしていきたいと思います。
そして、もし可能なら私もドナー登録をしたり、私の病気の心臓が何かの研究の役に立てばぜひ提供したいと思っています。
捨身飼虎
私にどこまでのことができるか分かりませんが小さなことでも、何か役にに立てることがあれば進んで行動にしたいと思います。
そして、子供たちにも教えていきたいと思います。
私のこれからの教訓になるような素晴らしいお話、ありがとうございました。
ぜひお会いしてお礼を言いたいのですが、それができない事をお赦しください。
ありがとうございました。