回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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元々自我らしきものがどこにも認められないことを知る
自我を離れるためにはあえて次のように自身に問うと良いでしょう。
「今あなたのどこかに自我というものがあるのでしょうか?」と。
誰かに「あなたは自我が強い」と言われたり自分は自我が強いと思い込んでどこかに元々無かった自我らしいものを認めてしまっているのではないでしょうか。たった今どこかに自我らしいものがある訳ではないでしょう。
無いものをあると認める。それが自我の正体です。
自我という認め事も、この(自分の)心身をして「オレだ、オレが、オレの、オレに」という中心地点を認めるから起こるのです。ですがそれは思い込みの一種ですから「本来天然存在のこの心身の上には何処にも『自分・オレ・わたし』というラベルはついていない」のです。それを時期証するのが坐禅です。
多くの人は観念の上で「自我らしい❝それ❞」を探し、❝それ❞を無くそうとする。そもそもがそれは観念、考えの上でつくられたマボロシ事です。
坐禅をしてゆくと、死以降の活動が穏やかになりますから、そもそもが自分を認めていただけだったという事がハッキリするのです。
たしかに一般的には自我が強いと怒りっぽくなる、自分中心になる、困ることが多いものです。
オレがオレがという心を離れるためには、自分をならうよりほかありません。
鎌倉時代の禅僧、道元禅師は有名な正法眼蔵現成公案の巻でまさに自我を滅する、離れる法を説いて下さっています。
原文超訳
「仏道をならうというは自己の真実相をならうなり。自己の真実相をならうというは、まず自己意識・自我意識とおもいこんでいるものを仏道修行によって、この身心からはなち忘れるるなり。
自己意識を忘じてしまうと目前の事実・現実=万法に証せらるるなり。
万法に証せられるということは、人間の思考分別による自他の隔てを消滅させてくれるのです。その結果、自我をこの身心から脱落させ、談安楽な人生が手に入るのです。」
自我をなくすのではなく、自我の有様を知り事実に目覚める
丹下師がすでにご回答なさっておりますので私は違う視点から、「自我はある」という視点から考えてみたいと思います。
自我があるといっても、この私の中に何か実体として自我というものが存在しているわけではありません。
では「私」という自我意識はどこからくるのか。それは他との交わりから生じます。
彼に対する私、これに対する私、あの時に対する私
関係の中で比較するところから自我意識が生じます。オギャアと生まれた時からお母さんや周りの存在と比べながら自分を認識してきた私、もうこのしみついた自我意識からは抜け出せないんです。
ではどうするか?
①他との交わりをなくす
→人間は一人で生きていけません。また人間関係に限らず外界のあらゆるもの・こととの接触で自我意識は生じます。よってこれは根本的な解決方法ではありません。
②特別な方法で自我をコントロールする、自我を離れる
→禅定や精神統一による特別な精神状態により自我を超越した境地に達するというもの。しかしこれには心を実体化している、そして、心は思い通りになるという二つの誤った視点があると思います。心もまた関係により常に変化します。ある一面だけをとらえてそれをコントロールしてもそもそも実体はありません。また感情は起こすものでなく起きるもの、自我意識も同様です。
※私は禅については専門外です。よって禅を否定しているわけではありません。
さて、困りましたね。どうやら自我とやらはどうにもならなそうです。だってそもそも実体がない。
あれ?ないものがある?あるのにない?
あ!これが「無我」の境地か!本来ないもののはずが関係によって存在しているんだ!自我だけじゃなくこの私も同じだ!縁起によって存在している!有り難いなあ…(以下丹下師の回答に続く)
難しいですよね。
抽象的に言えば「自我をなくすのではなく、自我に目覚める。ないものがあり、それにとらわれているという事実を知る。知ることにより上手に付き合える。」ということかと。
具体的に言えば「どこまでも他者と交わる。「私はこうしたい」「私は嫌だ」とか「私」という思いが自分の中心に(他との交わりの中で)存在することを知りながら関係の中を生きる。相手も同じ、私も同じ。その中から上手な付き合い方が見えてくる。」
というところでしょうか。