幸せとは
幸せの価値観は人それぞれですが、
よく言われるのが、 満足度を高めるや、豊かになる、誰かの役に立つなどだと思います。
私も満たされた生活こそ幸せだと感じますが、
満たされる=必要とされる、没頭できる、会話をしてくれる人がいる、等々だと思っています。
しかし、それが『幸せ』なのですか?
『幸せ』って何ですか?
そのために『どんな生き方』をすればよいですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
幸せも必要としない生き方
わたしは今、幸せも悟りも仏も何もいりません。
そのくらいに満たされています。それが私の幸せです。
どのようにしてそうなったかと言えば、一生懸命、悟りを求め、仏の教えを学びました。
ヘンな坊さんや、ウソの教えにも沢山引っかかりました。でも、それでも本物と言われる方を追いかける事を止めませんでした。
最終的には、自分の内に求めるものだと思いました。
その方は私がずっと悟りを外に求めていたのを、自分の心のありかたをチョイチョイとこうすればいいのだと手直しして下さった目の開いた(悟りを得ていた)方でした。
出来事や物事に対して、自分の都合を立てる事をせず、期待もせず、願いも求めもしない、ワタクシしないことが重要だと感じました。
立てぬ的 ひかぬ弓にて射る時は 当たらざれども外れざりけり という道歌があります。
貴女はシアワセらしいことを描いている、いつも追いかけている、そこにその理想が目の前の現実にない。だから得られない、理想と現実のギャップにときにはストレスすら生じさせる状態にあるのではないでしょうか。
思い切って、幸せくさい事を求めるのを止め、静かに自分に向き合い、求めの心を完全にやめるべきです。
そうすると人間は不思議な事にしあわせなんていう小さなラベルじゃない、もっともっと大きな幸せがすっぽり手に入るのですよ。
いまもとめている しあわせというなの あたまのなかでえがいたものを すててしまう
そのしゅんかんに あなたは べつの しあわせ ほんとうのしあわせを てにすることになる
与える対象がない人生は不幸であり、与える対象がある人生は幸福です。ということは、他に与えていれば人生幸福になるということですね。では何を与えたら良いでしょうか? 人が誰しも求めているもの、それは「自分は重要である」という想いです。だから毎日、他の人の自己重要感を少しでも高めて上げましょう。 お子さんのことも含めて。それはきっと幸福な人生のはずです。
不幸せにしない生き方
満たされることが幸せ、だったら、満たすための器を小さくすればいい、大ジョッキ分のビールが無ければ中ジョッキにすればたっぷり一杯だ、というのが仏教の考えになります。吾、唯(ただ)足るを知るの心境です。
幸せとは自分で幸せと感じること、つまり「自分自身の心が決めるもの」というのは、昔からいろいろな方が言ってこられたと思います。
であるならば、幸せの反対といわれる不幸せも「自分自身の心が決めるもの」ではないでしょうか。
目覚めさんがこの先、たとえどんなに悩んだり、苦しんだり、憤ったりしても、自分で自分を不幸せにしないでいただきたいと思います。
仏になることが本当の幸せです。
これは、お釈迦様が悟られたことです。
仏になることが仏教の目的であり、仏教とは仏になる為の教えなのです。
しかし仏教徒であっても、ほとんどの人は仏になりたいなんて望んでいませんし、それが幸せだなんて思うことはありません。
それは悟られた方が「仏になることが幸せだ」とおっしゃるのであって、悟りから果てしなく遠い私にはよくわからない境地だからです。
目の前の幸せを求めて私たちは死んでいきます。
本当にそれでいいのでしょうか?
それはとても空しいのです。
お釈迦様は「仏になる方法」をたくさん説かれました。
それがお経です。
是非、お釈迦様のお説き下さった「仏になる道」を聞かせて頂きましょう。
真なる目覚めへと向けて
目覚め様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「幸せ」に関しましては、最近では下記の問いにお答えさせて頂きました。
問い「幸せとは」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1019837645.html
確かにおっしゃられていますように「幸せ」の価値観は人それぞれです。また、世俗的には、満足すること、欲望を満たすことが「幸せ」というものになるでしょうが、仏教における「幸せ」とは、欲望を満たすような世俗的な意味合いでの「幸せ」ではなく、「涅槃・悟りの境地」という「究極的な幸せ」を目指すものとなります。まさに、目覚め様のお名前のように、真理に目覚めることが求められることになります。
世俗的な満足や幸せは、いつまでも続くようなものではありません。必ず壊れてしまい苦しみとなるものでしかありません。「壊苦」(えく)でありますが、苦しみの本質には、「行苦」というものが控えていることを理解することが大切なことになります。「一切行苦」に関しましては、下記の問いにてもお答えさせて頂いております。
問い「生きることについて」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017172785.html
『・・「行苦」とは、この世には永久永遠なるモノ・コトのあり得ない世界、無実体(無自性・無自相)の世界でありながら、実体視(執着)してしまうことで、無常であること、様々な移ろい行く現象が苦しみとなってしまっているということでございます。・・』
では、次に、その究極的な幸せへと向けて、どのような生き方をすれば良いのかということですが、仏教的なお答えと致しましては、七仏通誡偈「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」の内容がそのことを端的に表しております。要は、悪業を成さず、善業に努め励み、心を浄らかにすることです。もちろん、このことは簡単なようで実践が非常に難しいのでございますが・・
とにかく、真なる目覚め、究極の幸せへと向けて共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丹下 覚元様
ご回答ありがとうございます。
素直に…とても響きました。
私はこれまで欲しい物はお金を出して買い、また次の物を買い。人間関係においては嫌われぬよう笑顔で接し本心を隠し、それでも自分の存在を人に求め。
物欲は
手に入れてもまた次のもの。
対人によって得られる楽しい気持ちも、それで満足しているはずなのに
気づけば常に孤独感と虚しさが同居。
なぜだろうって思ってました。でもきっと自分だけでなく皆が同じように思っているはずだ、と。
だからそんなものだろうと諦めと虚無感と。
でも違うのですね。
問題は自分自身にあった。求めなければ幸せになれないと思っていた私には、とても目から鱗です。そしてとても納得です。
丹下 覚元様のご回答何度も読み返しています。とてもありがたいお答えだと。
自分自身と向き合うことから始めないとと感じました。ありがとうございます。
釈心誓様
ご回答ありがとうございます。
幸せを求めて求めて死んでいく。何かを手に入れてもまた次が欲しくなり、その欲の輪をぐるぐると。ほんと、空しいですね。
お経といえば般若心経くらいしか知りません。
その般若心経をまだ理解していませんが、
現代約般若心経というのをネットで見つけました。分かりやすく伝わって心が楽になったように思います。今度また坐禅に行き唱えたいと思います。ありがとうございました。
遠藤 喨及様
ご回答ありがとうございます。
子どもは大切ですよ。抱きしめてもあげてます。でも子どもだけでは満たされないのです。
与える事ばかりでは幸せとは思えないのです。
世の中2種類の母親いまして、子どもさえいたら、この子さえいたら私は何も必要でない。と人生の総てを捧げることが出来る方と、
子どもは大切だけど自分は自分と独立して考える方。私は後者です。
増田 俊康様
ご回答ありがとうございます。
確かに…幸せも不幸せも自分の心が決めていますね。落ち込んでいたら人の笑顔を見ても何も感じず、元気な時は一緒に笑っていられる。
自分の内面、考え次第なんですね。
何となく分かってはいるけど、ハッと気づかされます。よくよく心次第だと念頭に置いておきます。 自分に私は問題がある。
お言葉ありがとうございます。
川口 英俊様
ご回答ありがとうございます。
今の私には世俗的な満足が目の前にあり、それしか見えていない状態なんだと思います。
川口様が仰る通りいつかは必ず壊れてしまうのも知っています。
追いかけては手に入れまた次を。満足もするのですが常に満たされるわけでなく孤独と同居。
諸行無常という言葉の意味を最近理解しました。そうすると求める事がどこか虚しさを感じてしまいます。
こだわりと囚われをなくす心がいいのでしょうが…悪業はさておき、善業は…真面目には生きていますが、自問するとしていないように思います。心浄らかかと聞かれれば、自分の為に生きていて業が深く我が強いことが思い浮かべられます。
川口様、はっと気づくことの出来る回答ありがとうございます。そして仏教用語がとても勉強になりました。
共に頑張っていきましょう、という言葉が優しく響きます。ありがとうございました。