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自分の外見を受け入れるにはどうすればいいでしょうか

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初めてご相談します。

私は、ありのままの自分を上手く受け入れられていないように感じていて悩んでいます。

例えば外見のことです。
自分の顔を鏡で見るたびに「醜いな」と思い、嫌になります。

自分と同年代の女性芸能人等と比較して落ち込んだりします。どうすればいいでしょうか。

回答お待ちしてます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

観るべからず 見るべし

素晴らしい質問です。
お釈迦様の正見という修行の実践だけであなたも含め、これをご覧になられる人はみな救われますから、良い功徳を積まれました。
それは、ただ一つの事をすれば良いだけです。
ただ、見るということ。
ありのまま、あるがままなんて蛇足です。
本当に、ただ見る、映す。そういうシンプルな見る力を身につけるだけで良いのです。
それは
➀ものを見る時に自分の考えを差し挟まない
➁ものを見る時に比較をしない
➂ものを見る時に見えたままの事実を味わい、付随する思いは相手にしない
ただ、見る。
眼の働きにまかせて映るままに処する。
考えは付随させないで見ることが仏道、仏教、仏の眼、正見の真意なのです。
ただ「見る」という事が、多くの人間ができていない、していないのです。
1歳児、2歳児ですらすでにそうなのです。
大人になればなるほど、自分の考えを上塗りしてものを見る。
これは驚愕的な事実であるといえます。
人類のあらゆる迷いがここから起こっているという事なのです。
よって、それを各個人個人無くすことによって人類全体が救われるのです。…って、なんだか大きな話になってしまいましたが(笑)
では、多くの人は何をしているかと言えば「眼で見る」+「自分の考えを重ねている」のです。
見た直後に自分の考えをつけ足している、のです。
それはありのままに見ているのではなく、見る+イメージ想起している姿に他なりません。
それは見ることではなく、観る、というべきです。
ひどい仏教書や仏教指導者になると「正見」を正しく見る、と説いています。
考え、思想の上での正・邪、正義・悪、正誤などの正しさなどを付け加えては、本当にありのままに観ているとは言えないからです。
ものを観る時に自分の思いを付随させつつ、ものを見てしまっていませんか?
これをやめればいいのです。
※元々、目玉は映る、映すということしかやっていない。
そこに自分の考えを差し挟まないという事です。
アナタは自分の顔を本当に見た事はありますか?いいえ、無いはずです。
いつも❝観て❞ばかりでしょう?比較や、良し悪しの評価、自己嫌悪、それって、目ではなくアタマでやってるのです。
今、試しに、目の前のものに対して、自分の善し悪しや判断を付け加えずに見てみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

他の助けを借りること(借りたら返すのもお忘れなく)

メイ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

外見のコンプレックス、自己嫌悪、また、「ありのままの自分を受け入れられていない」ということをお伺いさせて頂きました。

そんなメイ様も下記のCM動画を一度ご覧になって下さい。

「ダヴ リアルビューティー スケッチ」
https://www.youtube.com/watch?x-yt-cl=84411374&v=E8-XKIY5gRo&x-yt-ts=1421828030

きっとメイ様は、メイ様ご自身が思っている以上に美しい、可愛らしいのではないかとは存じます。もっと自分の長所もまずは認めてあげて下さい。

次に、「ありのまま」と言えば、「アナ雪」でございます。

先日に初めて拝見し、当初抱いていた歌の内容だけのイメージとは異なり、どこかスッキリとしました。楽しい描写もあり、引き込まれ、アッと言う間に魅入ってしまいました。

さて、話を戻しますが、「ありのまま」の自分とは何でしょうか。傲慢、偏見、差別、自己満足・独り善がりなくに己のそのままのあり様のことですが、外見も内面も含めて、一度よくよく考えてみて下さい。

どうでしょう。他と比べてしまえば、あれやこれやと足りないこと、できないこと、劣ってしまっていることなどばかりが目についてしまうでしょうが、皆、実はそのようになってしまいます。当然のことです。何故ならば、私たちはできることよりも、できないことの方が圧倒的に多い存在だからであります。

そうです。「ありのまま」の自分とは、そのような存在であり、色々と制限のあるこの世界で生きていて、できることよりもできないことの方が当然に多いのであります。では、このような世界で過ごすためには、何が大切となるのか、それが、できないことよりも、できることをお互いに補い合って、助け合い、支え合い、分かち合って過ごしていかないといけないということであります。

話を戻しまして、例えば顔をより良くに変えたいとお思いであるならば、是非、メイク術や印象を変えるファッションコーディネートを長けている方から学んだり、エステ・ダイエットをして小顔を目指す、輪郭を調えるなど、幾らでも他の助けを借りれば良いのです。良い意味で芸能人のようにたくさんに盛るのも当然にありかと存じます。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

素敵なお返事をこんなに早く頂けてとても嬉しいです。今回このような悩みをご相談しましたのは、実は学生時代に他人から外見を直接罵られた過去があるからです。

自分の考えを挟まずにただ見ること。周りの人や世間に作られた思想を挟むことなく、シンプルに自分の顔を見る。

今までそんなことをしたことが有りませんので、とても新鮮な感覚がしています。

この外見をどうすべきかばかり考えてきました。ですが、今回のアドバイスを胸に違った気持ちでいられそうです。ありがとうございます。

これからも相談にのって頂けると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

お返事を書いてくださり、感謝致します。私自身完璧主義なところがあり、それが行き過ぎると、激しく落ち込むことも少なくありません。
ですが、僧侶からのお言葉を頂き昔、祖父から「メイは笑っているほうが良いね。」と言ってもらったことを思い出しました。あまり自分を追い込まずに、気楽にそれでいてアドバイスにありましたような、メイクやファッションを工夫して少しでも自分の姿を認められるように努力していきたいと思います。

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