「重複障害者を狙った」にショック
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。
昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。
健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と
思っているのでしょうか。
子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」
と思ってしまいます。
負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
早産のため、脳性麻痺になりました。 手足の機能障害で身体障害者3級。 躁うつ病で精神障害者3級。 両親も80を超えました。 兄弟、配偶者、子供はいません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
間に受けるべきではありません
「思う」ということには、「頭をよぎる」程度のものと「確信する」ほどのものがあります。
まずしっかりと信じていただきたいのは、今回のように確信的な人はごくごく一部だということです。今まであのような事件は無かったでしょう?そして同じような考え方が世の中にあふれているなら、今回の事件の報道がもっと犯人に同情的になるはずです。しかしそんなことはありませんね。今回の事件は極めて特殊なのです。
犯人は心のブレーキが効かなくなる精神疾患のために行政措置として入院していました。大麻の使用も疑われています。確信的と言っても、正常に物事を判断できる状態では無かったのです。その意味でも、特殊な事例なのです。健常者の皆が犯人と同じではありません。ご安心ください。
「頭をよぎる」程度で言えば、残念ながら無いとは言えません。実際にこういちさまも過去に心ない言葉を投げかけられたとのことです。でも、分かっていただきたいのは、そのような心ない言葉をよく使う人は、誰に対しても言っているのです。
お坊さんも言われますよ。「宗教なんかクソだ。ボーズなんか死んでしまえばいい。そもそも結婚しちゃいけないボーズの子供なんか世の中に存在しちゃいけないんだよ。」私も面と向かって言われたことが何度あるか数え切れません。
聞いた話では、ツイッターや2chなどでもっとも多く投稿されているワードは「死ね」なのだそうです。残念ながら「保育所落ちた、日本死ね」くらいに口癖のように死ねという言葉が頭をよぎる人が世の中には大勢いるのです。なんとも暗い気分になる話です。
でも結局は、その人達は本音で死ねと思っているのではなく、その人達自身が自分の境遇に疲れていて、自分とは違う存在に八つ当たりしないとやっていられないのですよね。だから聞き流すしかないでしょう。どうか間に受けないでください。それは言っている側の人間の弱さなのです。
なんとかしたいですね、人間の排他心を。私にできることは仏法を説くことだけ。自分と違う人間を疎む心は、結局は自分自身を追い詰める…そのことを説いていきたいと改めて思います。他者も自分も、同じく傷付いている考え方が無くなるように…それが亡くなられた方々へのせめてもの供養になれば幸甚です。
誰が「障害」とか「わるいもの」などと決めたことかを明らかに
人間みんな小さな障害を多かれ少なかれ持っています。
知人は立派な大学入って将来有望コースですが人としての愛情が欠けています。私も小さな障害があります。
いつか死ぬという100%避けられない障害を持って生まれた人間、その命を完全に燃え尽きるまで誰が勝手に止めて良いものでしょうか。
たった一人の偏狭な思想者によって命を奪われてしまった方々、ご遺族が本当に不憫でなりません。
謹んでお悔やみ申し上げます。
個人の偏狭思想というものは本当に恐ろしいものです。
だからこそ、その犯人の個人思想に染まらぬように、心を悪い箇所に留めないでください。
「そういうものなのだろうか」と思わせること自体が反人の狙いでもあります。
では、本当に障がいを持った方は本当に幸せなのか、不幸せなのか。
仏教の答えの一つは不戯論と申しまして、思考で論ずべきことではありません。
どこかの個人の偏った思考・価値観で人の命やこう言った事を論ずること自体が、出だしの一歩目を誤っているからです。
人間が結論すべき形は諭によるものではありません。
「諭」を超えた、事実からの実証。
こういったことが起こる前は、誰もが穏やかに、安穏と生活をされていた。
たとえ障がいをお持ちの方であっても、それを忘れていられた時がある。
障がい、ハンディキャップがあっても、それがありながら、それを忘じているから、なにも問題にならない心がある。
反対に人間が人間のどこかしらのルールや基準を運んでくるから、物事に良い悪い、価値があるない、有用、有用でないということが生まれてしまうのです。
健康で動ける人だけが価値があるなら、年を重ねた寝たきりの高齢者は誰も価値がないなんてことがあるでしょうか。少しでも長生きしてほしいと、日夜看護をされる方々もおられます。
今回の事件は、そういう介護や看護に携わる方々のこころすら引き裂いた、非常に残虐かつ非道なものです。自分が正しい、と思い込む「誤った正しさ」から人間は脱却しなければいけません。
どんな理由があれ、悲しむ人が生まれる行為が許されてよい訳はありませんから、どうぞ心安らかにお手をお合わせください。自分を責めるよりも、少しでも心情を吐露して頂き、ハンディキャップを抱える誰もが安心して暮らせるよう、偏狭思想ではない「正伝の仏法」を広めるべく、できる限りのお力をお貸しください。
障がいが有る無しに関わらず、みんな生きている人間である。
こういちさん
私もとてもショックを受け考えさせられている一人です。
間違えなく言えることは、個人的な価値観で人を殺めることは、あってはならないことでしょう。
障がい者の親は、決して楽とは言えません。しかし、だからと言って愛情はあります。そして、障がい者自身は、きちんとその環境その環境に適応しながら精一杯生きています。それを勝手な一時の思いで、そのような悲惨な行動に出てしまうというのは、なんとも情けないものです。
今回の事件は、犯人個人の思い込み、自分勝手な見方から、そのような行動に出たのでしょう。実に悲しいことです。
事実と自分の思い込みの区別がつかなくなってしまったこと、そこから悩み苦しんでそのような行動に出てしまったのでしょう。行動にうつす前に、sosを出して、人を頼ってもらいたかった。
しかし現実は、起きてしまったわけです。もう、どうしようもありません。法的に罪を償い、救われてほしいと願います。
また、被害に遭われた方や、ご家族、関係者の方々も、もちろん時間はかかるかもしれませんが、救われてほしいと願います。
合掌
皆、弱者同士、より良くに過ごしていくためには・・
誠に痛ましい事件が起きてしまいました・・亡くなられました皆様へ心からご供養申し上げます。また、ご遺族の皆様には心からお悔やみ申し上げます。そして、傷つかれました皆様のいち早いご回復を祈念申し上げます。再び同じような悲劇が繰り返されないように、社会全体で考えていくことが必要でございます。
「障害」のことについてでございますが、丹下さんと同様、全ての人はある意味での「障害」を持っていると言えます。
例えば、人間は、皆それぞれ何らかの遺伝子多型・SNPスニップ(変異)を抱えており、変異があるということは、大なり小なり何らかの障害を持っていると言えるのであります。
皆、変異・障害を持っているのですから、それで、実は「あたりまえ」、「普通」なのであります。
もちろん、その変異は、何かの病気や機能的な問題をもたらす原因になったりもしますが、一方で、実は、「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」となる可能性もあるのでございます。
これは、厳しい環境に適応して種を存続させていくために、変異・障害を抱えておかなければならないという、生命が進化の過程において必要になった当たり前の生存能力の一つではないかと考えることができます。
とにかく、完全完璧に何でも一人でできるような人間など所詮おりません。互いに皆、弱者同士にしか過ぎません。それぞれで、助け合って、支え合って、分かち合って、補い合っていくことが、私たちにおいては何よりも大切となるのであります。お互いがより良くに過ごしていけるように、各々が配慮、思い遣りを心掛けて参りたいものでございます。
以下の内容もご参考に。
「弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが...」
http://goo.gl/XxhNBw
『・・「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ。あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です。遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です。例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません。だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです。・・』
川口英俊 合掌
戦うことより出会いを。
こんにちは。
戦うって、障害者が死ぬか健常者が死ぬかという戦いでしょうか。
そんなことないですよね。
心無い声に負けちゃいけないってことでしょうか。
障害関係なく自分以外の誰かが死ねばいいのにって声は
・高齢者介護
・児童虐待
・いじめ
・職場
などいろんな場面で起こりうることです。
障害の現場が特別じゃないです。
「日本死ね」ってブログに書いた人もいましたね。
トゲトゲ言葉に人生の大切な時間を使うことより、今まで出会ってよかったと思える人とのつながりを大切にしてください。
よろしくお願い申しあげます。
衝撃的ではあるが、氷山の一角。キーワードは「邪見」
ご本人やご家族の方は、(あえて申しますが)不遇の身でありながら、
何度もご自身と向かい合い、「活きる」という進路をひたむきに歩まれてきたと存じます。
自身と真剣に向かい合い希望の光を追い続けた方々が、
恵まれた環境にありながら、自身の「邪見」な考え方により、
日の当たらん腐った輩に尊い命を奪われました。
恐ろしい事件です。
「障碍者なんて死んでしまえばいい」がクローズアップされますが、
むしろ、
「他人ばかり見て、現実の自分と向き合わない文句たれが増えてきた」
衝撃的な氷山の一角かと!
菩薩の守るべき十善戒の最後は
「不邪見」
分かりやすく申し上げれば、
「誤解・曲解するべからず」
大きな意味では
「仏の教えを疑うべからず」
身近なことでは、
自身の環境、
人から頂いたお叱り、お言葉、
身から出たサビ等々、
超意訳かもしれませんが、
「現実を素直に受け入れるべし」
私のできることは、
仏様の教えを紹介し、
皆のために幸せを願い、
前向きに生きることを、
身をもって展開していくのみです。
他の人のことを批判したり、気にするより、
DO MY BEST
「障碍者なんて死んでしまえばいい」は気にせず、
DO MY BEST
あなたが笑えば世界が変わります
これほんと
でも本気で自然な笑顔を発信するには稽古がいる
それまで
DO MY BEST
それからも
DO MY BEST
ボチボチいきましょ
質問者からのお礼
ご多忙中のところ、誠にありがとうございます。
現実の世の中は必ずしも理想的なものではありませんね。
しかし、それも「ありのままに受け止めて」生きていくことが大切だと思います。
人間は愚かで、無力で、過ちを犯します。しかし一方では努力すれば、間違いを正し、至らぬ点を
補ってくれることもある。助けてくれる優しい心を持った方もたくさんいる。現実から逃避せず、諦めることなく生きていきたいと思います。
さらに心ある回答を頂き、感謝に耐えません。
人間、生き物はそれぞれ特徴がありますが、それを長所と捉えるか、短所と捉えるか、心の在りよう次第ということかと愚考します。
実際のところ、私自身は今回被害に遭われた方々ほど症状が重いわけではないと思っています。襲われても何とか逃げたり、助けを呼ぶことも出来たでしょう。しかし、症状の重い方々は実際問題として、パソコンを使ったり、人との対話が困難な仲間もたくさんいらっしゃいます。悔しい思いを抱えたまま天国へ旅立たれたその方々の思いを代弁することも私にできることとして提議したいと思い投稿させていただきました。
今回亡くなられた方々のご冥福を心より祈るものです。
浅学非才の身、失礼の段多いかと存じますが、お許しいただければ幸甚に存じます。
さらに回答を頂いた通り、私は多くの方から支えられ、励まされ、力づけて頂くことが出来ました。それでもこういった事件に接するとついネガティブになることもあります。弱い自分を認めながらも冷静、平静な心を保つのも「自分との戦い」。不安を感じるのは仕方のないこととして、そこから立ち直り、生きる方策として「信仰」があるのかと思います。
「Hasunoha]の問答を拝見していると、他の方の悩みと回答には素直に合点がいきますが、こと自分のこととなるとなかなかそう感じないようです。冷静に距離を保つ、時の流れに任せることも必要なことなのでしょう。
今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。