hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

動物虐待

回答数回答 3
有り難し有り難し 151

こんにちは。
最近、未成年だから身元が割れないと思い未成年の子供達が力も無く生きる術も人間をたよわざる得ない小さな動物の虐待が増えて来ています。
今もSNSで安否確認して、レスキューしようとしている方が居ます。
絶対助けたい。

私は元々、動物が大好きで小さな頃から一緒に暮していました。
親達が
「犬は外!」
と捨て犬だった犬を庭に係留しようとした時に…。
私は家の中から、自分の枕とお気に入りの毛布を持って来ました。
「じゃあ、私も外!だって、この子は私の妹だもん!」

毒親の実父、初孫に甘い祖父、動物が好きではないが孫の言う事には従う祖母…絶句。

こんな行動を起こした物ですから、あの時代にミックス犬のお座敷犬になりました。
留守番が全く出来なかった私が、犬と一緒なら平気と留守番できるようになりました。
その犬も最後は、毒親の身勝手な再婚で何度も保健所行きになりましたが、私が全部阻止して親戚の叔母の家にお願いしました。
寿命を迎えて昇天してしまいましたが…。

今も私は沢山の犬猫、小動物に囲まれて暮らしております。
世話は大変ですが、それ以上に幸せと楽しみを浴びるように貰って居ます。
(たまに派手な悪戯されてしかる時も有りますが)

動物を虐待した愚者達の魂
       と
動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者の魂

これはどういう風になるのでしょうか?
天国と地獄、そんなありきたりな言葉では無く…。
詳細にどうなるかとか、魂の浄化?的な事はどうなるんでしょうか?
因果応報などと言う言葉も有るので、気になるんです。

私は動物保護(自分の出来る範囲)をしていますが、動物からの見返りなんて求めておりません。
一緒に居るだけで幸せです。
が、肉食をする人間と菜食主義の私。

色んなとこで、【殺生や虐待する他人】と違うはずと思ってお坊さんに質問を出させて頂きます。
宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

動物ばっかり愛するのも執着

動物だって肉をたべます。
自分になつくのはカワイイ。
意見の違う人間はキライ。
私がうまく関われるものだけ、好き。
動物を愛せる心は正義。
それに反する奴はみんな敵。
そういう理由からの動物ラブは、かえってあなたを損ね、狭い考えに陥らせるのではないかと、私は心配しています。
動物や植物というものは見返りがないからこそ純粋に、条件なしに愛せるものです。
そんなアナタに私はあえて人間を愛する努力もして欲しいと思います。
モチロン動物もかわいがりながら。
そこで学びながら。
(ちょっと変わった角度で回答するのが私の特徴ゆえ)
犬猫だってソソウをする。
スズメバチだって、人を刺す。守るものがあるから。
ムカデやゲジゲジだって、人を刺す。身を守るために。
人間だって、あなたの親のようにそそうをする。毒もはく。何かを守らんが為に。
アナタの好きな犬や猫だって、噛みつき、ひっかくところもある。
ニワトリだって、人間の嫌う虫も食べてくれるけど、虫にとっては「お父ちゃんをたべないで」という視点もある。
アナタだって自分の親から身を守らんが為に攻撃的になる。
これらって、どことなく、共通するものが見出されませんかね。
いま世界も色々な争いが起こってますよね。
あなたも怒っていますよね。
これってどこか共通していると感じませんか?
ちょっと、考えてみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

動物虐待をしていないと考えている人が多い。

「動物を虐待した愚者達」と「動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者」とおっしゃっていますが、動物ってどこからどこまででしょうか?

仏教では全てのいのちが等しく尊いのです。
全てのいのちに慈しみを持てるのは仏様だけです。

『観弥勒菩薩上生兜率天経』というお経にこんな話があります。
ある所に長い修行をしても悟ることができなかった行者がいました。
肩を落として道をあるいていると、道端で倒れている犬を見つけました。
近づいていくと、犬の足は怪我をしていてそこには蛆虫が湧いていました。
行者は犬を助けるため蛆虫を取り除こうとします。
そこで行者は気づきます。
犬から蛆虫を取れば蛆虫は死ぬ。
蛆虫を取らなかったら犬が死ぬ。
行者はどうすればどちらも助かるかと考えます。
そして自らの太ももをナイフで切り裂き蛆虫を移すことにしました。
指で取れば蛆虫を殺してしまうかもしれないから、舌を使い一匹ずつ移しました。
そのとき目の前に弥勒菩薩が現れて…

というストーリーです。

仏教でいう動物を大事にするということはこのレベルの話です。
ペットが好きだ、動物が好きだという感情はとても素晴らしい感情だと思います。
しかし、それだけで死んだ後の行先が変わるようなことはありません。
害虫・害獣は駆除し、お肉を食べ、医療を受け、化粧もする。
※医療や化粧品でどれほどの動物が殺されているか調べればすぐ分かります。

仏様からみたならば、動物が好きとか虐待してるとしていないとか、大して差のないことです。
当然動物虐待はするべきではありません。
しかし、それは道徳の上での動物虐待であり、仏法で考えればみんな動物虐待しているのです。
私たちはみないのちを等しくみることなど到底出来ない浅ましい凡夫であります。

{{count}}
有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
このお坊さんを応援する

弱き者の視点に立てるあなただからこそ、出来ることがある。

寿美礼さん

“動物を虐待した愚者達の魂
       と
動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者の魂

これはどういう風になるのでしょうか? “

このことがあなたの主たる問なのかと思いますが
魂がどういう風になるのかは私には分かりません。
ですので、お答えは出来ないのですが

感じたところを応えさせて下さい

あなたは人並み外れて動物虐待を許せない
高潔な精神だと思います。

それと同時に
“動物を虐待した愚者達の魂
       と
動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者の魂“

“肉食をする人間と菜食主義の私”

自分を正当化し、他者に攻撃的になってしまうところがある
それはなぜでしょうか?

こういうところを紐解いていけば
なにかしらの解放につながるのではないかと思います。

寿美礼さんあなたは

毒親という言葉を使用しているところから考えると
幼少期に親から虐げられて自分の存在に疑いを抱いていた。

しかし捨て犬を助け、育てることで
自分がいなければこの子は困ってしまうという
自分の存在の根拠を得た
捨て犬を助けながら助けられていた

自分に存在の根拠を与えたくれた
小さい動物たちを守りたい、そして傷つけた人間に罰を与えたい
また
幼少期に傷つけられた小さい自分を慈しみたい、そして傷つけた親が許せない

守りたいという高潔さと
許せないという攻撃性はここからきているのではないでしょうか

もしかしたら小さい動物と幼少期の自分を重ね
虐待者と親を重ねているのかもしれませんね

ですので、
か弱い存在には寄り添い助けてあげて下さい
それは寿美礼さんにしか出来ないことかと思います。

ただそういう自分は正しくて
そうでない人は間違っているという思いは、
分断を生み対立を引き起こしてしまいます。
それは本位ではないはずです。
傷つける人も誰かから傷つけられているのかもしません。

どうしたら一緒にいられるのか
なにが対立を引き起こしているのか
そこ見定めていく

弱き者の視点に立てるあなたなら出来ると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

御回答ありがとうございます。
じゃぁ、どうやったら…。

愚かな人間を私が好きになれるのでしょうか?

会話しても、低能な事ばかりで自分勝手で我儘を聞かされる。
相手が何故この世に生まれて来て、何の御役目をしているか不明になって居ます。
それに私は4歳から肉食を止め、途中までは医者の嘘に騙され少量を泣きながら食べていました。
今は完全に食べていません。

「お前だって動物実験の化粧品を使って居る」は心外です。
全部調べて、不使用の物を使って居ます。

私には、愚かしい人間の行為が理解出来ません。
どうして動物に苦しみを与えて、私利私欲の為にしか動かないのか?

私が変なのか?

か弱き者の為なら、いくらでも牙は剥きます。
人間なんて裏切るのが当然。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ