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良い親に恵まれなかった不幸をどう考えるべきか?

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ご質問させて頂きます。ハルソラと申します。

私の人生の根幹的な問題として両親との関係が良くなかったことで、だいぶ長い間苦しんでいます。

私の両親は短的に説明しますと、冷淡で子供とコミュニケーションを取ることをほとんどしない親で、特に父親とは私が30代後半の今になってもいままでろくに会話をした事がありません。

そんなただ食べ物と着る物を与えられ、生かされてただけの実感しかない私の心は小さい時から荒んでいたのだと思います。

愛された経験のない私は自分の存在意義も分からず、学生時代は無気力、社会に出てからはそんな自分を変えようと努力し過ぎて鬱病に、本気で自殺を考える事もありましたし、この世こそ地獄そのものだなとずっと思っていました。

しかしそんな私にも転機が訪れ、30代半ば(つまり数年前)にふと四国遍路に行ってみようと思い立ち会社を辞めて、歩きで八十八ヶ所を結願致しました。

自然の雄大さ、人々の出会いと暖かな態度、また歩き旅の不自由さから日常の便利さを改めて見直し、私は感謝と謙虚の念を学びました。
それ以降も各地を巡礼しながら仏道を独学ですが学ぶ事で、地獄の人生を歩んでいた私は僅かですが平穏さと幸せすら感じられるまでになったのです。

それでも両親との関係は変わらず、たまに思い返すと怒り、悲しみ、後悔、虚無感すら感じる時があり、そんな両親との関係性から自分が子供を生み育てたいとも思わない私が未だにいます。

こんな両親との関係性または私の執着(…でしょうか?)を真に乗り越えるにはどう考え、どう行動すれば良いのでしょうか?

お坊さまのご意見、ご回答よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去は変わる。

こんにちは。拝見いたしました。

私に限らずだと思いますが、お坊さんはおそらく一般の方よりも多くのご家庭に伺う経験をします。私のような小さなお寺の住職でさえも、数えてみれば今までで数百のお家にお参りさせていただきました。その経験から言えることは、「問題のない家はない。問題のない家庭はない」ということです。もちろん私自身の家族・家庭も含まれます。人から裕福で幸せそうに見える家族でも、中に入れば何かしらの問題を抱えていたりします。もちろん他人から見れば些細なことかもしれませんが、悩みの「重さ」ははかることが出来ないものです。5歳の子の悩みも100歳の人の悩みも比べられないものです。

仏教は執着「とらわれること」に気づいていく道ではありますが、それは無理くりそう考えろというよりは、私たちが「良い親」という価値観を自分で(あるいはまわりの価値観によって)設定してしまっている事に気づくこと、幸せや不幸のものさしを自分で設定してしまっていることに気づかされることが仏様の智慧に出会うということです。

「他人は自分の期待を満たすために生まれてきたのではない」

私自身、両親が不仲の中で育ちました。ただ仏道に出会い仏様のみ教えに出会うことによって、両親もまた自分と同じ、悩みと苦しみを抱えながら生きる一人の「人間」であると見ることができ、それから両親自体はそのままではありますが私との関係は変わりました。私自身も「こうであるべき」という思いで接するのではなくなり両親の言葉の背後にある苦しみを感じることが出来るようになりました。何をもって幸せなのか。それは結局他人から与えられるものではなく、自身で気づく他にはありません。

「今」を見つめ、今目の前の事、人を大事にする。「過去」の事実は変わりませんが、「意味」は変化します。仏道は順縁にては出会えず逆縁(苦しみ)によって初めて私たちは仏様の言葉に耳を傾けるのではないかと思います。自分が何を求めていたのかに気づくことも大事なことです。時間がかかるかもしれませんが、自身を見つめ仏様の言葉に耳を傾けてみていただけたらと思います。

合掌

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有り難し
おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせて...
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未熟ですから

拝読させて頂きました。お遍路さんの旅を続け様々な生きる感動を受けられて仏道修行に勤しまれているお姿本当にありがたきことと感銘を受けました。共に仏教を学ぶものとして大変嬉しく思います。同時に共に頑張りましょうね。南無阿弥陀仏
読ませて頂きました親子関係ですが一般例はあるもののやはり十人十色の関係ではないでしょうか?差があれどもどの親子関係も完全ではありません。愛情なのか強制なのかわからずいびつな人間関係もあります。つまり仏教でいうようなお釈迦様と弟子のような円満な関係は大変難しいです。親も人として未熟ですからね。
私も実は師匠であり父とは生前は二年間しか一緒に生活しておりません。いびつな家庭環境と親の都合がありましたからです。子供の私は大変劣等感を抱えて精神的病いを抱えながら生きておりました。
言えるのはやはり親も未熟であるということです。ですから共に仏道修行を歩むものであると今は考えております。
あなたもどうか心の安心を目指して仏道修行にこれからも勤しんで頂きたいと切に願います。これから共に学ぶもの同士頑張りましょうね。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

kousyo Kuuyo Azumaさまのご家庭も父親と上手くいかず苦しまれたのですね。

親も未熟な人間というのは確かにそうだと思います。完璧を求めるのは無理難題と言えるでしょうね。未熟な親も受け入れることが大切というところでしょうか。

ご質問していてなんですが、仏道の観点からこの問題をどう解決するかと考えた場合、もはやそこに「とらわれない(執着しない)」しかないと思っていました。もうそんな事はすっかり忘れて「いま」をしっかり生きる。それができるように精進して参りたいです。

kousyo Kuuyo Azumaさまのご回答大変ご参考になりました。誠にありがとうございました!

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