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自分が嫌いです。

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私には幸せな家族もあり、何も不自由なく生活しています。誰も私が悩んでいるなんて思わないかもしれません。

でも、心の中はいつも真っ暗なのです。

過去の自分が嫌で、昔の私を知る人がいる場所へは行けません。
恋愛や仕事に於いて、恨まれたり恨んだり、嫌われたり嫌ったり、傷つけられたり傷ついたり…。

最近もご近所トラブルに巻き込まれ、そのご近所さまから恨まれています。
その理由は正直よくわかりません。

トラブルの原因が私にあれば、もちろん謝罪もし、私なりに対応してきました。
けれどそれは自己満足にすぎなかったのかもしれません。

今でも人間関係に悩む日々は続きます。

心が疲れ、何もかも嫌になってしまい、そんな自分も情けなくて苦しいです。

どうしたら過去から解放され、前向きなこころを持っていけるでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思考のペダルをこがず 事実のペダルをこぐ

人間にはスマホのマナーモードと通常モードのようにモードの切り替えができるんです。
そういう機能が付いているんです。
その機能を使いこなせば、即解決です。
通常多くの人間は思考モード。
セルフトーク、マインドトーク、シンキングマインド、イメージがいっぱいにあふれて、これが暴走すると妄想がいっぱいになり現実すら見えなくなってしまうビジョンのことです。
もう一つは仏心や智慧、禅ではフシキ・不思量などと言われる事実ビジョン。
これは一度坐禅会に来て頂ければ一撃で理解出来ます。
当山では、自分を見つめて思考モードと事実モードの切り替えを自分でできるようになってもらうように指導しています。
この話は人によっては全くピンと来ないという。
もし、あなたがこの話を理解してくれて有用だと感じたら、坐禅会にご参加ください。
ここで、その体験と効果を語って頂ければタダでいいです。
人によっては何十年来の悩みが治ったり、学校にも行けるようになり、うつも治っています。
仏教っぽい仏教を期待している方はピンと来ないと思います。
うちには自転車が二台あります。
一つの自転車は私が乗るとペダルがギコギコと鈍い音を立てます。
もう一つの自転車は買ったばかりで快適です。
人間は思考の自転車に乗って、ペダルをこいでいる時、さまざまな想念が出てくるのです。
反対に事実の自転車に乗っている時、思考がやみ感受のみで快適なサイクリングを楽しむことができます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早急なご回答ありがとうございました。私はいつも現実と行き過ぎた妄想の狭間で苦しみ、またどこかでそこから抜け出して楽になりたいが為に自分を正当化し、他人を恨む毎日にもがいてまいりました。

色々な角度から自分を見つめ直したたいと思います。

ありがとうございました

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