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お盆中の母が怖い夢を見ると言うのです。

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夜分遅くの投稿失礼致します。
つい先程母から聞いた話です、先日からお盆に入り、怖い夢を見たそうなのです。
最初はカラフルな船が通って行き、その船に乗ってはいけないと思う夢。
次は、高いマンションのてっぺんを見上げながらあそこから飛び降りれば自殺出来るな、と思いながら私は絶対死なない!と思う夢だそうです。
私は母に何か起こるのかとても心配で、出来ればお盆が終わるまで安全に家に篭っていて欲しいと願うくらい不安です。
ネットで調べると逆夢との話もありましたが何せお盆中に見る夢でしたので普段見る夢の意味とはまた違うのではないかと思ってしまいます。
こういった経験はザラに良くあることなのか、特に意味の無い事だと良いのですが、不安でたまりません。
どうか助言をお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんにちは。「全日本テキトーで根拠のないこじつけ夢判断の会『夢ぅ民(むーみん)』」の庶務理事
のマダモアゼ二丹下です。
私のテキトーな夢判断によりますと、その夢はキチム(吉夢)と出ております。
夢判断の会のマニュアルブックにも「テキトーに相手が喜びそうなことを言ってやればよい、そもそも寝てみる夢なんて現実じゃないんだし、変な夢見ると人間って、なんかそれっぽい意味を付けたくなる心理がはたらくもんだから、テキトーな事いって安心させてやればよい」って書いてあるので、テキトーに申し上げますと、、、。
カラフルな船が通って行き
…今よりもきらびやかな世界、家庭、相手を求めています。
その船に乗ってはいけないと思う
…ですが、自己抑制が働いて娘や家族のことを思うとそっちを選択してはいけないと思っている自分
高いマンションのてっぺんを見上げながら
…そんな葛藤の中からいっそのこと両方から飛び出したいと思う自分、より高い自分を目指さなければと思い始めている。
あそこから飛び降りれば自殺出来るな、と思いながら私は絶対死なない!と思う夢だそうです。
…その高い所とは、お母さんの中では不確かなものですが、より高い精神性を求めていこうとしている状態です。仏道を求めてください。仏道は不死の道ですから。

以上、夢判定終わり。テキトーですが結構当たると評判です。
要は、夢という寝ている間に観た脳内作用に心が乱されている訳ですから、その動じやすい心の方をこそ納めなければいけません。そのために効果的なのは仏道修行です。
心がわたくしすることがこころの暴走の始まりです。
仏道は心をワタクシさせない。私的な暴れ事を無くする道です。
夢はゆめじゃ、現実は現実だ、と明らめることで夢から覚めます。
仮により良い人生を願われているにしても、進むべき道は自身の心をおさめる道です。
自分の心の乱れやすさも自己責任。60歳から仏道に入った趙州という立派な坊さんもいます。
夢から覚めた人生、仏道に足を一歩踏み入れるきっかけになさってください。
あ、冒頭の会は存在しませんのであしからず。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様、ご回答ありがとうございます。
正直に申し上げますと、最初にテキトー夢診断等と言う文が目に飛び込み、怪しい宗教団体の方からの回答かと思って驚きました!
ですが最後まで読み通して行くと、そんな事でいちいち心を乱されてはキリが無いんだなと思いました。それと、最後の一文の冒頭の会は存在しないと言うところで一瞬ポカンとしてしまいました。本当に初めにも書いた怪しい宗教団体の方でもなく、ちゃんとしたお坊さんなんだなと言う安心感とすっかり騙されて?(表現が悪いですが良い意味で)しまって気が抜けて、なんだか母親の夢の話もちっぽけな事に思えてしまいました。
お忙しい中ユニークで素敵な回答ありがとうございましたm(_ _)m!

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