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地震に対する恐怖心や不安が強いです

回答数回答 3
有り難し有り難し 77

またいつか大きな地震がくるのではないか・・・と考えてしまい、
不安な気持ちが消えません。

私はもともと心配性で、どんなことに対してもネガティブに考える癖があります。
いろんな心配事の中でも、特に怖いのが、いつか起こるかもしれない大地震です。

最近、不安と恐怖心で、物事に集中できなくなったりする自分がいて困っています。
起こるかどうかも判らない未来のことにとらわれて、今やるべきことに集中できない・・・そんな自分に嫌気がさして落ち込んだりもします。

恐怖心・不安感がずっとあり、気持ちを切り替えられず、ぼうっとしてしまいます。
やらなくてはいけないことが沢山あるのに、なかなか進まず、自分はだめなやつだと思ってしまいます。

こういった不安を気にしないで、やるべきことをやれるようになりたいです。
どうしたら心の平穏をとりもどせるでしょうか?

不安感・恐怖心を軽減させるためのアドバイスをいただけると
助かります。よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今を生きるだけです。

はじめまして。亀山純史と申します。仏教は今(今日)をどう生きるかを説く教えです。昨日(過去)はもう私たちの手を離れてしまっている世界であり、明日(未来)はまだ私たちの手の中にやって来ない世界です。なので、私たちに出来ることは、今(今日)を生きるだけです。いつ起こるかわからない未来の出来事に対しては、まずは「備えあれば憂いなし」で、考えられうる備えはしておきましょう。あとは、今日という曰を精一杯生きて行くだけです。
少しでも参考になれば、幸いです。

【補足】
毎日、精一杯生きることは正直疲れることでしょう。そんな時は、「私は生きている」ではなく、「私は今日も様々な関わりあいの中で生かされた」と考えてみればよろしいかと思います。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

身体は今のことしかない

あなたの体がカメラであるとします。
カメラは絶対に過去を撮影できない。未来も撮影できない。
あなたの体がマイクであるとします。
マイクは絶対に過去の音も未来の音も集音できない。
いつでも今の音しか拾いません。
カメラとマイクとは目玉のコト、耳の事です。
つまりこれから先に起こる事は、起こったその時にのみ、対処、対応すればいいのです。
✖地震が起きたらどうしよう ではなく
〇地震が実際に起きたら、その時、冷静に対応する ように致しましょう。
いま 本当に 目の前のものを見つめる事から始めてください。
そこに未来も過去も無いはずです。
✖過去を思い 未来をここにひきよせて 今現在をとこやみにする
〇今のみで あとさきなきが真の法 過去も未来も今の一念
この二つの道歌をゆっくり味わってみてください。
私たちの身心は過ぎ去った過去の事はとどめていないし、いまだ来らざる未来の事は、ミジンも起こっていないのです。
「過去や未来なんて コトバだ」 了叡

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

不安や恐怖の根本原因について

かえで様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

大地震・・確かに不安で心配になりますよね・・

実は、その昔、地震予知の研究していましたが、東日本大震災を機にどこか虚しくなって諦めました・・

さて、以前にも同じようなご質問にお答えをさせて頂いております。

問い「自然災害が怖いです」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002996507.html

『・・自然の脅威には逆らえない・・それを受け入れるのも必要なこと、無常の理趣を認めるべきだと。もちろん、後々に後悔しないためにも防げることであるならば、防ぐことに努力するのは大切なことです。防災・減災にできる限り取り組むべきであります。しかし、どうにもならないことは、本当にどうにもならないのだと受け入れて諦めることも大切なことでございます。・・』

『・・良寛禅師は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と述べられておられます。災難にあっても、しっかりとそれはそれとして現実を受けとめて、冷静にその時にできることをできる限りに対処していくことが肝要となります。いまだ起こってもいないことにあれこれと思い悩んでも詮無きこと、杞憂なることでしかありません。とにかく目の前の現実の一つ一つと真摯に向き合って、なすべきことをなしていかないといけないという次第でございます。・・』

とにかく、不安や恐怖というものには、必ずその原因がございます。

仏教では、その原因を無明(根本的無知・真理を知らない愚かな状態)であるとして、その無明の対治に取り組むことになります。

無明の対治のためには、特に智慧と福徳(方便行・善徳行・慈悲利他行)という二資糧を円満に積むことが必要となります。もしも、本格的に不安や恐怖を克服なされたいとなりましたら、是非、仏教の修習にお励みを頂けましたら有り難くに存じております。

不安や恐怖につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いておりますので、お時間のある時にまたご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_321055.html

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

お礼がとても遅くなってしまって大変失礼しました。
回答していただいた亀山 純史さん、丹下 覚元さん、川口 英俊さんどうもありがとうございます。

「関わりあいの中で生かされた」という考え、はっとしました。
周りの人にお世話になっているとはいえ、自分の意思で生きているような感覚でいました。
しかし、いろいろな関わりあい、環境によって偶然今日も生かされているのだと気づくことができました。

何か問題がおきたら、おきたそのときに対処すればいい・・・その通りですよね。
解りやすい例えと、道歌も教えてくださってありがとうございます。
自分の頭で考えてたときよりも、「今のことだけ」ということについて、腑に落ちました。

地震について科学などである程度予知できるようになればいいですが、
仮に精度があがっても天気予報のようなもので、絶対ということはないと思います。
紹介していただいた良寛禅師の言葉はとても潔いですね。関連のリンクもありがとうございます。
「不安定」が本質ならばそのことを気に悩んでも仕方ないと思えました。

おかげさまで地震のことにとらわれることは、ほとんどなくなってきました。
他の不安や悩みでくよくよすることは今でもありますが、
いただいた回答を読み直すことで、それらの不安についても「仕方ない」と
置いておくことができるようになってきました。
新しい視点をありがとうございます。

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