hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

がっかりしました

回答数回答 3
有り難し有り難し 123

今日、お寺にお盆のお供え物を下げに行ったところ、一部のお供え物が無くなっていました 身内が下げるような事はありません…あのような場所で他人のお供え物を持って行くなんて、信じられません…残念でした


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悪く意味を添えるからこそ苦しい、ということがあるものです。

せっかく故人様方に差し上げたお供物を持っていかれてしまって不快な思いをされたと思います。世の中には本当に自分の許容範囲を超えて「スゴイ」人がいます。
檀家さんがお墓参りに来たら花が抜かれていたそうです。
「身内の仕業にちがいない…」と思ったそうですが、何のことはない。
カラスでした。
カラスが水を飲むために引っこ抜いたのです。カァ―
着目すべきは、その方が、そこにありもしなかったことをあたかも本当であるかのようにイメージを観た。
実際はそうではなかったのに、ご自身の中で何やら良からぬことを想起されてその思いで苦しめられてしまったという所に着目してください。
私たちはみな同じような事をしているものです。
人間は世間の痛ましい事件でも、(確かに痛ましい事件です)そこにそれ以上の自分の思いを添付してしまう事でより一層苦しくなることがあるものです。
うちにはサイセン・ド・ロボがやってきます。あ、賽銭泥棒さんのことです。
近くの入間川付近で暮らしているホームレスさんが時々やってくるのです。
敢えて賽銭箱を空にせず置いておくこともあります。
人生何があったのかわかりませんが、賽銭を盗むまで大変な生活をされているのですね。
私たちも人生何が待ち受けているかわかりません。
そのお供物を持って行ってしまった人は本当に生活が困窮しているのでしょう。
貧しさ。こころの貧しさ。
そういう生き方をせざるを得なかった人が実際におられる、という事もこの世の事実なのです。
まず、その人を生み出した背景をちょっと想像してみましょう。
あなたさまはその人よりも恵まれているかもしれません。
もちろん、盗みをよしとするものではありません。
良寛さんも盗人が家に入った時にあえて泥坊さんに布団を持って行きやすいように寝たふりをしてよけてあげたという話も残っております。
良寛さんのこの度量の広さも面白いと思いませんか。
人がその行為に走るには何らかの理由があります。
人間ゆえに人間の世で裏切られることがありましょう。
人間の世でもがき、あがいて、魔がさして悪事に手を染めそれなりに生きている。
悪事をなせば、自ずから本人が自身の良心の呵責で裁かれる。
そこでシラを切っても分かる人には分かるその人の人間性がにじみでるものです。
その人がいつの日かより良い人間性に目覚められるよう供養してあげたと思ってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お供え物は誰の物?

ねこ様はじめまして、ご相談拝見しました。

先のご回答と同じく状況がわかりかねますが、どういったお供え物だったのでしょうか?
お墓や納骨堂のお供え物でしょうか?

地域やお寺によってさまざまな習慣があるかと思いますが、私の所属するお寺ではおそらく8月20日前後からはお供え物の整理をします。
墓地の物は雨風にさらされたりカラスや虫の被害にあっていたりという状況なので基本的に処分します。
納骨堂のものは全て下げ、利用できるものは他の機会に利用したり、ご近所にお配りしたり、私たち寺族がいただいたりもします。下げにきていただけないものはもったいないですからね。

それから少し驚くかもしれませんが(実際私も最初は「え!?」と思いました)、納骨堂のお供え物は誰がどこのお供え物をおさげしてもよいという習慣が昔から漠然と続いているようです。
実際いつも良さげなものをもっていってしまうことで有名な方もいたり…ゴニョゴニョ

一見納得いかないかもしれませんが、お供え物とは何なのか考えるよい機会になるかもしれませんね。
言うまでもなく故人や仏様がお供え物を実際に食べることはありません。ですからお供えしたものは私たちが「お下がり」としていただいて食することになります。この時お供え物は「私が〇〇円で買ったもの」ではなく「仏様からいただいたもの」になっています。
ですからみんなで分けていただくんですね。法事の席なんか特にそうではないでしょうか?誰々が一番多く買ってきたから多くいただく、なんてことになるでしょうか?買ってきた量や値段に関係なくみんなで同じだけ分け合うことが多いのではないかなと思います。

お供え物は仏様への感謝と敬意を表すもの、私と仏様をつないでくださるものでもあります。

私があとで食べるため、ではないんですね。

どうでしょう?ねこ様もあらためて誰に何のためにお供えしていたのかな?と考えてみてください。

でも実際はちょっと悔しいからお寺さんに聞いてみてもよいかもしれませんね。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

状況がよくわかりませんが。

本堂にお供えしていたものが無くなったという事でしょうか?
そしてそれが僧侶の仕業であるかもということでしょうか?

地域にもよりますが、意外とお寺というものはさい銭やお供えを狙ったコソ泥は多いのです。
うちでも少し前に墓参の方のハンドバッグが置き引きに遭いかけ110番したことがあります。
お気を付け下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
一般家庭から真言宗のお坊さんとなりました。 お寺はありませんので普段は普通に企業で働いております。 求めに応じて衣を纏い法を説いてます。 https://youtu.be/-k4oRLFXGSM https://youtu.be/02VnGUcldkI https://youtu.be/AM8z5xl1f8E

質問者からのお礼

渡部仁海 様
ご回答ありがとうございます
はい、我が家の納骨堂にお供え物した物が無くなっていました。お坊さんが持って行った等とは考えた事はありません…誰かが持って行ったのだと思います…他人の方のお供え物を盗むなんてびっくりしました。

丹下覚元 様
ご回答ありがとうございました

吉武文法 様
ご回答ありがとうございました
こちらのお寺は、納骨堂にお供えしたものは、責任を持って自分で下げるという事になっています。世の中には、色々な方がいるのですね…

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ