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父親のことで家族の喧嘩が絶えません。

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私は物心がつかないうちに母親を亡くしてから、父方の祖父母のところに預けられ、父親とは別に暮らすようになり現在に至ります。
父親は現在無職で、仕事を探しており、50歳です。
父親は毎日家に電話をかけてくるのですが、祖母が水子供養をしていなかったり、祖父が祖父や祖父の兄弟が先祖の供養していないから、自分は仕事が見つからないんだと言ってきます。これをほぼ毎日言ってきます。
父親はお坊さんと昔からの知り合いなのですが、そのお坊さんから言われているらしいです。そのお坊さんは、金取り主義ではないらしく、なにかあると父親の電話にかけてくるらしいです。しかし、いくらお題目をやってもまだ足りないといってくるらしいです
なので、祖母は毎日お題目を唱えています。
祖母は父親を信じているので、宗教否定派の祖父と必ず父親のことで喧嘩になります。
私も毎日お題目を唱えているのですが、しょっちゅうそんなことを言ってくるので頭が痛いです。信じていないわけではないのですが、父親の全て親が悪い主義にはうんざりしています。
少なくとも祖父は父親に対して、生活費をあげたり、車をかってあげたりなどで何千万とお金をやったりしていたのですが、父親は祖父を不信心といい、罵っています。
これってどちらが正しいのですか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私が学ばせて頂いている教えに、供養不足などはありません

ご質問は、あなたのお父さんとお祖父さんのどちらが正しいか、ということですが、(あなたも含めて)あなたのお父さんは、ある特定の宗教を信仰なさっているようですので、その信仰を無責任に批判することは、一宗教者として、私は避けたいと思っております。ただ、あなたのお父さんが信仰している宗教が仏教であったならば、私が学ばせて頂いている教えとはかなり異なるものに思いましたので、今回、私が学ばせて頂いている教えとの違いをご紹介させていただきます。

先ず、水子供養や先祖の供養をしていないから、あるいは、お題目の唱え方が不十分だから、仕事が見つからないという教えは、私が学ばせて頂いている仏教には見当たりません。たとえば、もしプロスポーツ選手が自分の成績不振の理由を、先祖の供養をしていないからとか、お題目の唱え方が不十分だったから、と考えるでしょうか?あるいは、あなたが学校の学業成績を上げたいときには、勉強ではなくお題目を唱えることに専念するのですか?私が学ばせて頂いている仏教では、仏法を学べば学ぶほどに、自分自身がいかに自己中心的な存在であったかが明らかにされてくる教えです。学業成績を上げたければ、精一杯勉強をするのみです。

次に、お祖父さんが宗教否定派とのことですので、私の宗教の見方を述べさせていただけば、宗教は私たちの生き方(人生に対する価値観)を明らかにしてくれるものだと、私は思っています。もちろん、ある特定の宗教を持たなくても、私たちは生活できます。でも、正しい信仰心があれば、より良く自分という存在を知ることができます。私たちには、2つの眼がついています。これは、私たちの外部にあるものを知るためのセンサーのひとつです。それに対して、宗教は私たちの内面を照らしてくれる鏡です。

以上が、私からの回答です。あとは、あなた自身が、どのように判断するかです。一日も早く、お父さんが就職されることを、そしてあなたにも落ち着いた日々が来ることを祈念いたしております。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

「御先祖様」は遺されたものの「安らぎ」を一番に思っている

大変難しく、またご不安な日々を送られていることと、
心よりお見舞いを申し上げます。

小生は、ものごとに正しいも間違いもないと思っています。
すべてはそうなった原因があり、いまその結果として
表れているのだと思います。

正しいか間違っているかは、だれにもわからないと思います。
本人たちには、「それが正しい」のです。

小生は、あなたさまが、祖父母様にも、お父様にも、なにより、
お母様にも安らかであって欲しいと、こころから願われている、
その尊い思いを感じ、ただただあなたさまの安らかなることを
祈るばかりです。

恐れながら、
小生の思いを申し上げれば、あなたさまは、あなたさまの
夢に向かって、まず一心に勉学なり、お仕事なりを務めるのが
宜しいのではないかと思います。

ひとりの一生懸命なる姿は、やがてまわりを変えていくものです。
小生はそれを信じています。
あなた様の懸命に夢に向かう姿は、希望でもって皆様の
ご両眼に映るはずです。

小生は、御先祖様の安らぎとは、
「今生きているものが安らかに、希望に満ちて生きていてほしい」
という思いに叶えるところにあると思うのです。
供養を「した・しない」は関係ありません。
ものを供えたり、題目を唱えたから供養ではないからです。
「せずにはおれない、感謝と報恩のこころ」を供える、
それが供養の本来だと思っています。

お父様のお電話がつらいときは、逃げてもいいのです。
そのことを申し上げたらよろしいと思います。
大事なのは「わたしはこうおもう」という思いを知って頂くことです。

どうか、おこころのやすまる日が、早く訪れますよう、心より
祈ります。あなたさまと御家族皆様に、さちあれ、さちあれ。合掌

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おきもち

本当に与えるべきものを与える

「おじいちゃんごめんね、ダメなパパだね(笑)変なお坊さんに騙されて…」
まず、おじいちゃんにこう言ってみましょう。
それだけでお互い心の負担が軽くなると思います。
さんざん手を焼いた息子(パパ)でしょうから、この世を去られるまで厳しくしつけてちゃんとしてもらいたいと思っているはずです。だからこそ、おじいさまから本当に与えるべきものの・中身・内容が大切なのです。亡くなってしまったら遺産にすがるだけの働かないダメパパになること確実です。
人は与えるもの中身が大切です。
お父さんは要は自信がないのです。
50過ぎてダメパパ&おじいちゃんとケンカ状態。本当に困った状況。
今までも今も父であるお爺さんが、しっかりさせようと、甘えか、叱りか、さとしつけを与えておられると思います。
厳しさも、叱りも、お金も、時には与えないことも、奪う事も与えることです。
おじいちゃんからパパにあげるものは認めてあげることや息子としての自立、独立。
おじいちゃんからお金をあげなくても良いように自分で働いてもらう。
そのために、お父さんに自信をつけてもらうためにおじいさんと、あなたとの話し合いと励ましが必要です。
「パパに仕事して前みたいに格好良くなってほしい」「おじいちゃんのせいにするのは大人としてずるい」「パパならできるよ」と、やさしくタイミングを見計らって言ってみてください。
不機嫌な言い方やイヤイヤむくれ顔でいう事は男性には禁物。
およそ、娘からそこまで言われて奮起しない父親はいません。
それでも、変化をしないのであれば、よかっらたおじいちゃんにもこのページを見てもらってください。
目的は、お父さんをしっかりさせることですから責めたり、叱ってはいけません。
ケンカの為に話し合いをするのではなく、怠惰なのお父さんにしっかりしてもらって、ケンカもさせないために、おじいちゃんにも優しく言ってもらうようにお願いしましょう。
ウチのお寺では私がレフェリー役を務めて家族間で話し合いをしてもらうという事が良くあります。
第三者を交えれば、家族観の困った状況が変わります。
おじいさんにも良かったら話をしてみてください。
数時間で、今後の人生が大きく変わります。
事前に御連絡いただければお手伝いができるかもしれません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お二人ともご回答本当にありがとうございます。こういうご回答を待っていました。これで、父親を説得できそうです。本当にありがとうございました。

私も一生懸命勉強をがんばりたいと思います。

うちには遺産というものがないので大丈夫だと思いますが、人のせいにするなとは今まで言ってきました。ですが、あんまり耳に入っていなかったようでした。
父親が変われるようになってほしいです。ちなみに、父親のことをパパと呼んだことは生まれてから一度もないです笑

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ