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暇は毒

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だいぶ前にあるラジオ番組でことわざか何かわかりませんが、暇は毒という事を言っていました。確かに暇だと考えなくても良い事を考えたり余計な事ばかり頭の中をよぎったりします。一度限りの人生、もっと楽しく明るい考えを思って何かいろいろな事に挑戦したり自分を磨きあげた方が良いのがわかっているのですが、自分のマイナス思考が先行してなかなか難しいです。
どうしたら良いのかご住職さまにお伺いしたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実践-道を歩むー

暇は毒、よい言葉ですね。私も暇な時はダラダラと物思いにふけったりしますが、たいていのことは考える事では解決しませんね。

実践あるのみです。目的地までの地図を持っているのと実際に歩けるかどうかは別。やみくもに歩めとは言いませんが、歩いてみてなんぼでしょう。

仏教でも仏道という道の実践が重要です。

「多く説くからとて、そのゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理をみる人、怠って道からはずれることのない人-かれこそ道を実践している人である。」ダンマパダ259(中村元訳)

そしてこうあるべき、という考えをぬぐいさることも大事かもしれません。
「人生は楽しくあるべき、明るくあるべき。」こうあるべきというものを普通ととらえると、それと比較して自分がそうなっていない時に自分はダメだとマイナス思考に陥ってしまいます。

人生なんて苦しいものかもしれませんし、明るいだけが人じゃありません。

「一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」ダンマパダ278(中村元訳)

怠ることなく歩む中で苦しみをよく見つめ、苦しんでいる原因が明らかになった時、苦しみの中に安らぎを見い出すことができ、どんな道も歩んでいけるのかもしれません。

「(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮闘する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無常の幸せである。」ダンマパダ23(中村元訳)

これはやみくもに、がむしゃらに頑張れといっているのではありません。とらわれを破ることを歩みの中で確かめてほしいということです。

休む時は休み、考える時は考える。明るい時は明るいままに、暗い時は暗いままに。苦しい時は苦しいまま。

あるがまま。

それがどんな道も歩む方法です。実践あるのみ。心は形についてきます。形をととのえれば心がついてくることもあるでしょう。

暇だなと思ったら、仏壇の前で正座して合掌・念仏してみるとか、座禅をしてみるとかちょっとした取り組みをしてみましょう。
心がととのったら、やるべきこと・やりたいことに少しづつ取り組んでいきましょうね。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

そんなに暇ならウチへどうぞ

ヒマは最高ですよ♡
私の夢は毎日ヒマになることです。(笑)
仏教では天上界と言いまして、時間も生活の余裕も持て余している精神状態があります。天上界というと響きはイイのですが、一寸先は闇、いつか転落の人生。そして、いまだ真実仏法に出会っていないので、妄想や苦しみ、悩みは確実に根絶できていない状態なのです。
大会社の社長でも生き方を誤れば自我、吾我、エゴ、我欲、我愛のカタマリ。
カネカネカネカネで、家族も幸せと程遠かったりする。
企業でもガツガツしてカネモーケに走った結果、全然幸せそうじゃない顔つきした人たちがいるでしょう。
だからこそ仏道は、どんな世界においても必要なのです。
家庭においても、教育の場においても、恋愛においても夫婦においても、企業においても、政治においても、医療福祉においても。
「薬」となるからです。
宗教性が我欲を慎むからです。
自由な発想が人を活かすからです。
とらわれなき心が人を赦すからです。
金より幸せになれる道を説くからです。
ヒマはヒマでもただの静けさではなく涅槃寂静になるからです。
マイナス思考が先行しているうちは涅槃寂静ではありません。
涅槃への道はまず、自分が思考のペダルをこぎまくっていることを自覚し、思考で答えを求めている姿勢に気づきそれをやめることです。
私は、ヒマな時、暇ではありません。楽しみ、親しみです。
こんな静かで、有り難い事実に、ヒマだ…なんて言ったら事実に失礼です。
坐禅も凡人がやるとヒマになる。
何らかの価値を求めるからです。
上手な人が教えると暇ではなくなる。
行き先を持たなくなる。
全身がセンサーになる。
何もしとらんようでも、全てが語り掛けてきている自己なのでヒマどころの沙汰ではない。
外を見るからヒマになる。
内をみればヒマだ、ヒマだと騒いでいたのは涅槃という素晴らしい名画に黒い思考のペンキで塗りたくっていた「自分じゃぁ」とハッキリする。
どうなりたいかが明確になったら坐禅会にお越しください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中のご回答誠にありがとうございます。
まずは人と比較しない事ですね。人間一人一人生い立ちも違います。
それと、仏壇の前で拝む事はあっても念仏や座禅はやった事がないので、
これからやってみたいと思います。

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