命が、自分が、怖いです
こんにちは。
私は、命が怖いです。人は簡単に死ねるからです。屋上から飛び降りたり、線路に飛び込むことで。
私はそんなあやうく、儚い命が怖いです。なぜ、私たちは死ぬのにそのような命を今生きているのでしょうか?死のうと思えばいつでも死ねる、なのに何故皆生きているのか、と思います。
そして、そんなことを考えているとふと、ここから落ちたらどうなるんだろうなどという想像をしてしまいます。私はそんな自分もとても怖いです。
死にたいわけではないのですが、自分が突発的に自殺したらどうしよう、と…。
しかし世の中には生きたくても生きられなかった方もいます。それに、私の命は親から頂いた大切なものです。だから、こんなことを考えるのはいけない、そう思います。
ですがだめとおもってもその想像は私の頭から離れません。怖いし、苦しいです。
どうすればこの考えから抜け出せるのでしょうか…。私の考えはおかしいのでしょうか?
又、冒頭の繰り返しになりますが、なぜ生きているのでしょうか。命とは何なのでしょうか?
まとまりのない文章で申し訳ないですが、教えていただきたいです。よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教 それは自分の命を最高に喜ばしく生きるおしえ
ある人がガスで自殺を試みたそうです。
せめてもの自分への最後ご褒美として、この世の最後の一服をしようと、タバコに火をつけた時…、ドカン!(引火)
病院に運ばれながら口にした言葉は「死ぬかと思った…」だそうです。(笑)
頭ではあれこれ考え、死のうとすらした。そしたらタバコ吸いたい、引火して自分の生命の危機を感じた。つまり、あなたの自我やそうやって思っていることとは、まるで違うもの。それが命です。
あなたの思いの上での想像や取扱い事とは、まるで無関係な素晴らしい働きが命なのです。
あなたの意思とは無関係に、あなたの持っている命の中に、取り入れてはいけないものが入り込めば、あなたの意志とは、無関係にくしゃみが出ます咳が出ます。
あなたの意思とは無関係に、心臓が動いています。呼吸をしています。
どれか一つでも自分の思い通りにすることができるでしょうか。
ムリして止めようとすれば、あなたは苦しんで死んでしまいます。
「何故いきているのか」と理由を問う前に、あなたはこの世界に生まれてきている。
リクツをつけたがるのが人間という生き物ですが、理屈、屁理屈以前に、今の真実がある。
「はじめに言葉ありき」と言った哲学者がいました。
ですが、本当は、
「はじめに事実ありき」です。
これがお釈迦様の悟られた世界です。
何の為に?何故生きている?そんな屁理屈の前に、言葉の前に、思いの前に事実がある。
それを求めに、うちのお寺にも沢山の禅者が道を求めに来られます。
リクツで人間納得して、幸せになれる位なら、世界中の人はとっくに理屈でハッピーになっています。
楽譜は楽譜だけあっても、音はならないんです。
レシピはレシピだけあっても味はしないんです。
あなたはもっと、現実を生きるべきです。
こんな文字、言語、ワード、情報よりも、生のダイレクトの命を感じてみましょう。
そして、あなたのその命が最高に喜ばしく、安心する生き方を求めてみましょう。
「死んで終わり」は仏教の教えではありません。
I.Gさんの悩みは私達の根本的なものであろうと思います。
浄土真宗の立場でお話します。
少し難しいかもしれません。
わかりにくかったらごめんなさい。
仏教は輪廻を説きます。
死ぬと生まれます。
生まれると死にます。
そして死ぬとまた生まれるのです。
そして仏教は自業自得を説きますから、善行に励めば来世は良い所へ生まれ、悪行を重ねれば来世は悪い所へ生まれます。
これがお釈迦様が説かれた「いのち」の有り様です。
※浄土真宗の僧侶は「命」と「いのち」を使い分けています。
「命」の場合は今生きている生命を表し、「いのち」は輪廻を含めた生命の有り様を表現します。
何故生きているのか?
それは遥か以前からずっと輪廻し続けてきた結果です。
前世の前世の前世のそのまた前世が生まれては死んで死んでは生まれて…を繰り返してきた結果です。
過去に輪廻から解脱し成仏していれば、人間に生まれてくることもなかったでしょう。
※例外もあります。
中国の僧侶である曇鸞大師様は「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」という例えをお示し下さっております。
「セミは春も秋も知らない。また夏を夏ということも知らない。」という意味です。
これは私達の命の見方を例えておられます。
セミは夏に生まれ夏に死ぬから春も秋も知らない。
だから夏が夏であることも知りません。
それと同じように人間は前世も来世も知らないから、今の私の命が何なのかを知らないとおっしゃるのです。
それを悟られたのがお釈迦様であり、私達は死んで終わりではなく輪廻していることを説かれたのです。
生きている意味は何か?
命とはなんなのか?
私が生まれたのは「前世が死んだ結果」です。
そしてまた私の前世は「人間に生まれるだけの徳を詰んだ(五戒を守った)」ということです。
その結果、私は人間として生を受けた。
人間に生まれることは極めて難しいことです。
また人間に生まれることは大チャンスです。
何故なら仏になる道が整うからです。
「命」は極めて短いものです。
しかし輪廻する「いのち」は永遠に終わることがありません。
この輪廻から解脱し仏になる教えが仏教です。
この度の「命」で仏になる教えを聞かせて頂きましょう。
「生命(いのち)は」
I.G様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「命」とは何か・・生きるとは何であるのか・・
どうしていずれ死ぬのに生きなければならないのか・・
誠に難しい問題であり、拙生もまだまだ考えている途上でございます。
生きる意味や生きる事につきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えをさせて頂いて参りました。
生きる意味について
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html
生きる事について
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318925.html
上記の拙回答は、またお時間のございます時にそれぞれご参考にして頂くことと致しまして、この度は、吉野弘氏の一編の詩を下記にて引用させて頂きます。
「命」について、私たちのありようを理解していく上での考える一つのヒントになるのではないかと存じております。
何も今日、明日すぐに、性急に答えを出す必要もありません。
とにかく目の前のことを一つ一つ丁寧になされていかれながらにおいて、是非、共に考えて参りましょう。
「生命(いのち)は」 作詞・吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
川口英俊 合掌
一切は苦である。苦の生命に闇雲に執着し、輪廻している、
私が、スリランカ人の僧侶アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話を聞いたときに、このような内容のお話がありました。
ざっくりと言います。
生き物の特徴は動くこと。
なぜ動くかというと、苦しみがあるから。
息を止めると苦しいから、はきたくなる。
はき続けても苦しいから、吸いたくなる。
お腹がすくと苦しいから、食べたくなる。
食べ過ぎても苦しいから、食べるのを止めたくなる。
立っていると疲れて苦しいから座りたくなる、寝たくなる。
ずっと寝ているのも苦しいから、寝返りしたり立ちたくなる。
生き物が生きる活動とはつまり、苦しみから逃れるために動くだけ。
しかし、動いた先もまた苦しみ。こっちの苦しみが大きなったら、別の苦しみに逃れ、またそちらの苦が大きくなり、苦から苦へ動いているだけ。
…というような話でした。
ではなぜ生きているのか?執着・煩悩があるから、苦しみの生命に執着して輪廻しているんですね。
生きることは苦であると、お釈迦様は発見されたのです。
苦しくてあたりまえだと認めることが安らぎにつながる。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。ためになる言葉ばかりで身に沁みました。これから精一杯生きていこうと思います。