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仏教を学ぶ方法

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有り難し有り難し 20

少し前に、曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう?
と、初めての質問をしたハタケです。
前回の質問の回答を読んでまた疑問がでてきてしまいました。

仏教との出会い、縁を大切にし、学んでいこうと決めたのですが、私は信者になりお寺に所属?檀家になると仏教のことを教えてもらえる機会があるのかなと思っていたのです。

しかし、前回の回答で、幅広く仏教を学ぶこと、宗派に拘らず、檀家=信者ではないと、、、
その回答を何度も読んでみて、曹洞宗に入ったからそれで満足、それで信者で終わってしまうのではなく、本気で、正しく、自分自身で学ぶことも大切なのかもしれないと思いました。
しかし、その方法がよくわかりません、、、
本などを読むべきなのか、、
一つ不安なのは、我流で仏教を学んで間違った解釈をしてしまわないかと不安です。
どのように学んでいくといいのでしょうか?
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

井上貫道老師 井上哲玄老師

禅を学ぶなら悟りを得た僧から学ばないと無意味です。
悟ってない僧からは結局、授かるものがなかったです。
普通の人と変わらんわけですから。
私は曹洞宗大本山総持寺で10年安居修行して業界の実状を観て愕然としました。
口先だけのタヌキ老師なんて沢山います。
今は悟ってなくても本山の要職に就けるのです。
この丹下もタヌキと思って頂いて結構です。
指導者がタヌキかホンモノかを見極めるのは各自の自己責任です。
TV出たから、有名だから、本書いてるから、立場エライから、騙されちゃダメです。
大臣ならみんな立派なのでしょうか。いいえ。
「悟りを得た僧」の元で学んでください。
日本にもちゃんと悟りを求めて、実証して、広めている僧侶もちゃんといるのです。
ただ、世間で知られていないだけです。
世間が有名なだけの中身の無いタヌキ僧侶をマトモだと思って信じ込んじゃうのです。
タヌキの傷のなめ合いに騙されてはいけません。
悟りを得てない僧侶が伝える仏教なんて知識・情報だけです。救いがないのです。←ここ重要
そんなものはネットで拾えます。
その者が悟っているかだけを問いましょう。
知識で救われるなら仏教本で十分です。
アナタが味わうべきは悟りの写真やレシピや楽譜やデータでない。生の悟りのテイストです。
識だけ求めても無駄です。
悟りの現物をじかに伝えてくださる指導者から教わるのです。
禅師・師家・布教師という肩書きにも騙されてはいけません。役職なんてローテーションです。本質をよく見極めましょう。
悟りの中身を子細に説き尽くせる僧の元で学べばちゃんと悟りは明らかになります。
悟りを得ている人間の所でないといくら坐禅して意味はありません。
曖昧な言葉でけむに巻く人なんて大体ウソッパチです。
本質を良く見極めましょう。
あなたが本当に救われるかどうかです。
私の個人的なおススメは井上貫道老師 井上哲玄老師 
全国各地で禅会をやってますよ。
ネットで動画もありますので、ご検索を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

まさかのJOJOに、ふつーに笑ってしまいました。
回答をありがとうございます。

丹下様に直接お会いして、お話を伺ってみたいと思ったのですが、埼玉はちょっと遠いので、動画検索をしてみます。

ただ、今回の回答の内容も大切にし、焦らず学んでいきます。

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