運とは
50歳代自営業者です
「運も実力のうち」 と言われますが、 この運でない
人には、どうにもならない運があると 諸先輩から教えられます。
私は 運の無い人生を送っていると言われます、
これが持って生まれた、どうにもならない運なのですか??
運とは、仏教の教えでどのように考えたらよろしいのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
安因運縁穏 運も因縁と転ずれば安穏に。
運という言葉に引っかかり過ぎです。
そもそも運を絶対視するから迷うのです。
もちろん、この世には重力や天の運びや、それぞれ個々の物質や生物、人間、気など目に見えない力や作用が「運び」として働いています。
ですが「運」ということが絶対的にあるかのように思ってしまってはいけません。
運は「運び・運ばれ」。今の結果は運が悪いのではなく、運び・運ばれが適切でないだけ、と観るのが正しい運の捉え方です。
ザックリ分らんことをまとめて「運」と表現しているだけですから、因と縁の働きかけをして運を自分で転ずるのです。支配することで安穏をゲットできます。
私はお昼にマーボー豆腐を頂きました。
📞「マーボー豆腐のモトだけはあるんで豆腐買ってきて」
運悪く豆腐が無かったので、仕事中、出先で買ってくることになりました。
この豆腐は先程、飯能市で買ってきた豆腐なのですが、豆腐が麻婆豆腐になるためにも壮大な物語があります。
💀運悪く人間の手によって収穫され工場に閉じ込められてしまったカナダ人の主人公ダイズ。
「ダイズにいちゃーん」
「モヤ子ー、エダマメー!」
仲良しだったモヤ子やエダマメと引き離されてしまいました。
「がはは!お前の番だー!」
ある日ダイズは運悪くコッテリ絞られて「ぐわー!」記憶を奪われます。
ところが運よくダイズはトニューとして再デビュー。
やがてトニューは運よく二人の女性と恋に落ちます。
「もう!どっちが好きなの‼」キヌ子とモメ美という二人の女性の間に心揺られます。
「どっちも好きだっ!選べない!」
トニューはキヌ子とモメ美のどちらも選ぶことなく引きこもります。
ネットで知り合った別の女性、荷雅梨(ニガリ)と浮気して身を固めます。
蒸すようなアツアツの部屋の中で愛を重ねながらもトニューの脳裏にはモメ美(木綿)とキヌ(絹)子とのことが忘れられない。その気持ちを見抜いたニガリは苦汁の決断。
トニューの愛が固まる前にかき混ぜてしまったのです…!
「ホホホ…もうマメ…アタシたちは終わりよ…!」
「よせ、やめろ…寄せー!」
こうしてできたのが❝寄せ豆腐❞です。
寄せ豆腐は水分が多くて運悪くマーボー豆腐には不向きで、運悪くこってり私も絞られそうに…。
ですが、レンチンすれば水分が抜けます。
運よくこれを知っていた私は運に支配されることなく道を切り開きました。運は自分で転ずるのです。
仏教が説くのは因・縁・果
辞書的な意味で言えば、
「運」とは人の身の上にめぐりくる幸・不幸を支配する、人間の意志を超越したはたらき。天命。運命。
となっています。
仏教が説くのは因(原因)・縁(条件)・果(結果)です。
光禪 氏の回答を引用すると、実際にはあまり勉強しなくともテスト前の休み時間にみた箇所が「たまたま」試験に出た。ということも有り得ることでしょう。
それを我々は「運がいい」ととらえます。一面的に言えばそうかもしれません。しかし、実際にはそれでおわらないのです。一つの出来事(果)はまたそれが因や縁となって影響を及ぼしていきます。
テストの例で言えば、では次に同じ内容を問われたときに「たまたま」見ただけで身についてはいない知識を答えられるのか?ということです。
こうなると継続的に見ていけば先ほどの「運がいい」例は実は悪影響を及ぼす結果を生むことになります。
我々は何が善で何が悪かもわからずに、その場その場で短絡的に一喜一憂しているだけなのです。
確かに我々は人生に起こる出来事の大部分を選べません。天災に遇う人もいれば遇わない人もいます。それを運がいい・悪い、すなわち運命論で片付けると「出来事は全て決まってしまっている」ということになります。「これまで」も「これから」も。
しかし、実際にはそうではありません。仏教では運命論は否定されることになると思います。
確かに、人生においてどんな出来事が起こるか、すなわちどんな縁に遇うかは選べないことも多いでしょう。
それでも、その起こった出来事に対し「どういう態度を取るか」で「これから」は変わっていくものと考えます。
運命だとあきらめ悲嘆するか、なにくそと挑んでいくか、そういう選択の自由が我々には残されているのです。
その選択が実現できるかどうか、それも縁によるところは大きいでしょう。
今、目の前にある物を思い通りに掴めると我々は思っていますが、実は掴める可能性が極めて高いというだけで、その掴めるという事実はたくさんの縁に支えられているのです。
(その瞬間に飛行機が突っ込んでこないとか、誰かに邪魔されないとか)
つまり、「こうしたい」と思ってコツコツと努力をすることは大変尊いことであり、同時にその努力を支えてくれる見えない縁に感謝することも大切でしょう。
「運」とは我々の分別に基づいた短絡的なとらえ方なのかもしれません。
運とは言いながら実は努力の結果
こんにちは。確かに「あの人は運がいいなぁ」って事、ありますよね。
仏教では因果といって、原因には結果があり、結果には必ず原因がある、と説いています。
ごくあたりまえの話ですよね。
確かに「運も実力のうち」という言葉を使いますが、例えば宝くじが当たった人に対し「運も実力のうち」というでしょうか?あまり使いません。
例えば、「たまたま勉強した所がテストに出た」、「仕事でたまたま大きな契約が取れた」といった時に「運は実力のうち」という言葉を使っていると思います。
今ここに「たまたま」と書きましたが、きっとそのような方は、たくさん勉強した結果「たまたまテストに出た」、たくさん努力した結果「たまたま契約が取れた」のだと思います。運と言いながら、その裏で実は大変な努力をしているはずなのです。ですから、努力をせず運だけを期待して、他人の成功を「運が良くていいなぁ」なんてやっていたら、いつまでたっても「運」はやってこないと思いますよ。
天は自らを助くるものを助く。
運がいいとか悪いとか、
よく言われます。
不思議に自分は運が悪い、損ばかりしている人で、幸運な人を見たことがない。あなたはここに人生を大きく好転させる何かを掴みに来たんですよね?
それなら、まず、自分は運がわるいとか、人に利用されて損ばかりしているとか、不運続きだとかを、繰り返すのは、やめましょう。
善因善果、悪因悪果ですよ。
そんな性根で、いい人生を歩めると、
思いますか?
あー悪いことがばかりだ思う、原因を作って、現実に悪い結果を享受するわけです。
長年培ってきたあなたの習慣、心の想いはなかなか改まらないにしても、せめて、毎日ことあるごとに、自分の人生は好転しつつある、必ずよくなる、
素晴らしい人生を歩むんだと、暇さえあれば繰り返し、言い続けてください。必ずそういう人生になります。ならないはずかない。騙されたと思ってやってごらんなさい。
これは信仰に似ています。
最初から目に見えない、声も聞こえない阿弥陀さまの存在を信じるなんてできないのです。それが、とにかく毎日毎日念仏を唱えて、私は阿弥陀さまとともに。我が人生を歩ませていただいているだ。と言い続けると、ほんとうに確固たる信心ができてくる。揺るぎない信心は幸せです。有難いという気持ちが自然に口からこぼれおちるようになる。是非ともお試しください。
あなたの活躍を阿弥陀さまとともに、
祈ります!
幸運も不運に。不運も幸運に。
はじめまして。亀山純史と申します。
「人間万事塞翁が馬」という故事がありますよね。
“昔、ある老人の馬が逃げ、人々が気の毒がると、その老人は「そのうちに福が来る。」と言った。やがて、その馬は駿馬を連れて戻ってきた。そこで人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう。」とその老人は言った。するとその馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう。」と言った。一年後、隣国の軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ。”
つまり、人生における幸不幸(幸運不運)は予測しがたいものであり、幸せ(幸運)が不幸(不運)に、不幸(不運)が幸せ(幸運)にいつ転じるかわからないのです。それは、そもそも絶対的な幸せ(幸運)も、絶対的な不幸(不運)もないからなのでしょう。
しかし、そうはいっても、震災で全てを失った人にとって、震災に遭ったことは、絶対的な不幸(不運)にしか映らないかもしれません。そして、どうやってこの状態が幸せ(幸運)に転じるのか、と思うかもしれません。しかし、震災であっても、それは絶対的な不幸(不運)ではないのです。絶対的な不幸(不運)ではないからこそ、そこからの復興があるのです。もしも、震災が絶対的な不幸(不運)であったならば、震災からの復興は永遠にありえないのです。
以上が私からの回答になります。お役に立てれば幸いです。
質問者からのお礼
5人もの僧侶の方々にご回答をいただき、深く御礼申し上げます。
実例による・故事による・ユーモアによる・理論的やお叱りによる お教えをいただきました。
何度も拝読しております、しかし、私の未熟によりまだ理解できない教えもあります。
今後も拝読し続けて理解し人生に生かしたいと思っております。
お忙しいところ、このような詳しく長文によるご回答をいただいたことに感銘しております、
本当にありがとうございます。