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海外で死んだら魂はどうなるのですか

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海外で死んだらその魂は何処へ行くのでしょうか

仏教徒であれば海外で死んでも極楽へ行くのでしょうか


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

十方世界

仏教では、東西南北に東南・東北・西南・西北、そして上と下を加えて10の方向に無数の宇宙(十方世界)があり、
それぞれの宇宙には梵天、天・人・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生というさまざまなレベルの生き物がいると考えられます。
で、魂というか、心は、十方世界のどこにでも、どんな生き物にでも、生まれ変わる可能性があります。
心は普段、物質・肉体的な刺激に執着しているため、心の活動範囲に空間的な制限を設けているのかもしれません。
なお、浄土宗等では、十方に無数の世界がある中で、特に西方極楽浄土に生まれ変わりたいと願います。
極楽浄土の主である阿弥陀仏は、極楽へ生まれ変わりたいと願って念仏する人が臨終のときには、極楽から迎えに来てくれると言われています。
仏教徒が全て極楽浄土に生まれるとは限りません。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

霊魂について

अवतार様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

魂や霊などは、完全に「無い」と言い切ってしまいますと、虚無・絶無という断滅論に陥ってしまい、あまり宜しいことではありません。また、逆に「有る」と言い切ってしまいますと、実体・実在という常住論に陥ってしまって、あまり宜しいことではありません。

また、「無いとも言えないし、有るとも言えない」となると、なんと、いい加減なと思われてしまうかもしれません。

ただ、一応、これまでにも下記の各問いにてお答えさせて頂いておりますが、「縁起なるものとしては、有り得るもの」と理解致しております。そして、亡くなった者の行き先も「縁起」によりて決まっていくことになるかと存じております。善き行き先へと向けては、やはり善き因縁が必要であり、しっかりと善き因縁の集積に取り組んで参りたいものでございます。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319683.html

『・・「霊感」を宗教的な面から捉えようとして考えますと、その根拠や証明、論証の曖昧さが生じてしまうため、非常に難しい問題を孕むことにもなります。ただ、あくまでも仮定でありますが、もし「霊感」があるとしても、色々な因・縁(原因や条件)により成り立っている「縁起」なるものであり、実体として、独立自存としては成り立っていない「空」なるものであるかとは存じます。その因・縁をより善くに調えることで、当然に結果も改善させることができるのではないかとは存じております。・・とにかく霊や魂と、生前も死後においても、実体、独立自存として存在しているものではないということだけは言えるかと存じております。・・』

「・・到底、論証・証明のできないようなことを扱うのは所詮ナンセンスで、私たちの現実の迷い苦しみを解決させていく上で何ら役に立たないことであり、特に、この霊の存在についても典型的なもので、釈尊は「無記」として扱われた次第となります。もちろん、釈尊は全知者でありましたが、あえて意味のないようなことを議論する必要がないとお捨てになられたのでしょう。それよりも、善き行いを積みて、善き因果の流れに乗りて、善き赴きへと向かうことに、しっかりと取り組みなさいということでございます。・・」

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

文系仏弟子 理系仏弟子

別視点からもお答えします。(^<^)
極楽浄土を死後の世界、遠くに存在するものとして捉えず、精神状態とみてみましょう。
立証のできない「死後の世界存在論」を肯定することは、正見・正思惟と反する仏教における矛盾でにもなります。
実は死後の世界論は民間信仰とコラボして生まれた仏教ファンタジーとも言えます。
その処方箋として、生まれた方便があのヨあるヨ論もといえます。(丹下説)
仏教業界でも「あの世アルゼ派・ナイゼ派」の二派があります。(笑)
アルゼ派の文系仏弟子は「ある」と信じ込むことで死に対する恐怖が和らぎ思想上、安心しますが、正覚は得がたいです。どこまでいっても思想に拘泥するからです。
「あの世無いゼ派」理系仏弟子は
「あの世…、(福山雅治風)面白い。♬テーマソング
あの世は生きている人の創造にすぎない。死んだ人間で生きている人間はいないからだ。生まれ変わり?本当の極楽浄土とは、生きている私たちが、自らの心をおさめ、故人やすべての人との関係性をよりよいものにし、仏道に精進する中で悩み苦しみのないより豊かな精神に往き生まれゆくべき事ではないかね?」
ファンタジーがないのでドライで寂しいですが、正覚を得られます。
魂、霊とは、どこかに浮遊するとか、死んでどこかに行くというものではなく、故人様への記憶、思い出、影響力、愛着、未練、社会的責務、関わり、DNA、想いのことを霊というのです。
何処で亡くなっても死ということそれ自体がその生の全うです。
エベレスト山頂などで亡くなられた方が、成仏できていないのではないか?という思いを起こしているのは、生きている私たちの思いです。だからこそ、そういう内なる自分の迷える思い=衆生、を仏道によって安らかに導いてこそ、はじめて成仏、極楽に往き生まれることといえましょう。仏教は他人が事ではなく、我が事なのです。
「人を案じて、苦しむ思いが生まれる処は、他所に非ず。常に自らの心の内である。」了叡

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

なるほど、大変勉強になりました
モヤモヤがようやく晴れました
ありがとうございます!

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