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僧侶になりたいのですが、少々迷っています。

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有り難し有り難し 38

今、私は大学生なのですが、今通っている大学をやめて、僧侶の道を行こうと考えています。今の時代、東日本大震災や熊本地震、いじめなどで自殺する人など、苦しんでいる人々が数多くいます。

そういう人達のために、少しでも救いの手を差し伸べることができたらと思います。ですが、これまで大学に入るために色々資金面で援助してくれた両親、祖父母、親戚などに申し訳ない気持ちがあり、なかなか言い出せない所があります。おもいきって言うべきなのか、アドバイスください。お願いします。
後、誰かの紹介なしで一般の人でも出家して雲水さんのように修行をすることができるよう受け入れてくれるお寺が関東にあるならば、教えていただけるとうれしいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大学をお辞めになる前に

蓮華様
はじめまして。大学をお辞めになる前に一つおすすめしたいことがあります。

今ある時間を使い、蓮華様が気になっている和尚様方に会い、話を聞かれてはどうでしょうか⁇

日本には約30万人の僧侶がいると言われています。様々な先輩僧侶の話を聞いて、ご自身のお坊さん像のイメージがついてから結論を出されてもよいのではと感じました。

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有り難し
おきもち

大本山總持寺安居ののち、松岩寺副住職となる。テレビ朝日系お坊さんバラエティー番組ぶっちゃけ寺出演経験。著書:最高のお葬式・最高のご供養(ベストブック社)地元紙・業界誌に執筆・投稿・取材等。ファイナンシャルプランナー・終活カウンセラー上級・お墓ディレクター2級などを保有。「どんな供養の悩みも解決出来る僧侶」を目指し気仙沼を中心に活動中 松岩寺公式ページ https://bk3027o.wixsite.com/kesennuma

僧侶にならずとも❝僧侶な行い❞をすると良いです

人間は実質です。
肩書きではなく実質。
地位や立場ではなく実質。
僧侶でも僧侶していなければ形だけ。
だから人間、実質が大事。
形から入ろうとすることは得策ではありません。
あなたが僧侶に変わって、僧侶と同等に、もしくはそれ以上に僧侶の為すべきことや、宗教者の為すべきことを為せばよいのではないでしょうか。
この心身は本来誰もが宗教行為を行なえるものです。
宗教というと分りづらいので教育や料理、芸術と言っておきましょう。
この身心はその気になれば、誰でも教育を行なえます。
誰でも料理を行なえます。ウマい下手は抜きにして。
だれでも芸術作品を作れます。
人間はこの身心に無限の引き出しをもっているのです。
あなたもその気になれば水泳もダンスも裁縫も宗教行為も医療も福祉も掃除もボランティアも小説も漫画家もドライバーにもギャンブラーにも悪魔にも菩薩にも仏にもなれます。
何を為すか成すかによって人はその実質が「なに」かになる。
あなたは本来自由な活動体。
坊さんとか言う小さな器にとどまらん方がよい。
ま、そういう小さい器にとどまらん生き方を坊さん、僧侶というのですがね。
本当に坊さんになりたければ、まずこの実質から。
ここを明らかにしてみてはどうでしょうか。
形から入ると人によっては本当に形だけになる。
まずは形の上の僧侶という肩書きを捨てて実質のみを極めましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答有難うございます。そうですね。僧侶になることを決断するまえに、和尚様方の話を聞いてみて改めて考えてみます。近くのお寺で禅の会を開いているので、参加してみます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ