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母親を赤の他人と思うことにしました

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有り難し有り難し 38

初めて質問させていただきます。
宜しくお願いします。

現在実家で、父、母、私の3人で暮らしています。
社会人2年目の私は、仕事にも慣れ、頼りになる上司、気の合う友達、彼女にも支えられ、恵まれた環境で毎日を過ごしています。

外での恵まれた環境が心地よいせいなのか、実家に帰るの嫌で嫌で仕方ありません。

実家に帰れば必ず喧嘩口調で母が話しかけてくるからです。内容は些細なことかもしれませんが、私は心底腹が立ちます。

周りにこの話をすると、母親に腹がたつなんて、反抗期の延長線だ、お前はまだ子供だ、などと言われます。
私も一時は反省して、親に感謝して生きなければなどと思いましたが、冷静に考えても母親が喧嘩口調で私に言う事が正しいとは思えないのです。

これまでは若干の反抗はあったにせよ、大抵は私が我慢してその場を収めてきました。感情論だけでぶつかってくる母親への反抗は無意味と気付いたからです。ただ、このまま喧嘩口調な母親にイライラする毎日が続くのは耐えられません。

そこで考え方を変えてみることにしました。

自他共に認めていますが、私は昔から外面が良く、他人には優しく接する性格です。仕事柄、周りの人への気遣いも多少身についています。それを踏まえて、

母親を、他人と思って接するようにすれば、お互いイライラすることなく過ごせるのではないか。

という結論に至りました。
これはおかしなことでしょうか?
それとも、喧嘩口調にイライラはするけれども、毎日の家事は感謝している、というように論点をすり替えることが大人の考え方なのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もう一つの道をいきましょう

◌おかあさんを他人と思う
◌無理に家族を演じていく
そのどちらからも離れるのが出家です。
どのように離れるかと言えば、私的感情を混入させないという事です。
出家とは別に頭丸めたり、衣を着るという事ではない。
在家出家といっても、家を捨てることではありません。
出離すべきことから、出離するのです。
それを代表しているのが、人間の我欲の巣窟である「家」。
この場合の家とは、ハウス、ホームというより、自己の想念。
「ああ、この人嫌だなぁ」「ああ、この家もう嫌だ」という自己の想念から出離するべきなのです。
自分の想念、我欲、ルール、執着、しばられからの離脱こそが出家、出離でもあるのです。
あなたの家では母親のルールが辛い苦しい。それは確かな真実でしょう。
世の中の父親母親が必ずしもみんな立派な人であるとは限りません。
立派だったら本当にお互い幸せです。
ですが、あなたが今やろうとしていることは「逃避」に等しい。出家スランスではない。
単に親子の縁を切るという「逃避」であると、仏教的なスタンス「出家」ではありません。頭を丸めてスキンヘッドにすれば「頭皮」ですってシャレかい。
あなたの場合
①赤の他人と思う
②無理して親子関係を存続
この二つから離れた道を選択する方がいいです。
①では意地を張っているようなものです。
限りなく①でいいのですが、上手な距離感を取りつつ、決して避けることのできない親子の関係は縛られない程度に存続させていくのです。それの距離感はこれから上手に見出して行ってください。
そうでないと、単なる反発に思われてお母さまからも気に入らない、と思われてある意味風当たりが強くなってしまうからです。
どろどろの愛情のこんがらがった紐をほどくように、シバラレはない程度に。ひもで首を縛られる感のない程度に。
出家された方々も自分の親をないがしろにしていた訳ではありません。
親を見捨てたらそれは社会的にも人としてもアウトです。
ですが、あなたの場合はあまりにもキョーレツな親だというわけですから、上手な距離感を取りつつ、あなた自身の精神的な向上、心の豊かさを求めるために「菩提心」を起こしてただ来たいと思います。
単に親を捨てるだけの人間になって心が魔道へ行くか、親と上手な距離を取りつつ仏道を求めるとでは天地の差です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

正解だと思いますよ。

拝読させて頂きました。親子の関係は大変難しいですね。大なり小なりどこの家庭でもあるものですね。
あなたが今お考えになった答えも一つだと思います。お互いの年齢によってもおそらくは違いが出て参ります。

本来ならお互いそれぞれに人格があり、お互いを尊重しながらも精神的にも生活面でも助け合うことが大切です。

ですがなかなかうまくはいきません。それぞれに生きていますからその状態も常に変化していますからね。

私はあなたのお考えで良いと思いますよ。

また時期が来て考えてみれば良いと思います。

親も子もお互いそれぞれに成長していきたいですからね。人生最後まで成長過程ですから。

あなたがこれからご両親様とお互いを尊重し合いながらお健やかに毎日を過ごして頂きますようにと心からお祈り申し上げます。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
上手く距離感を取りつつ、人の道から逸れないよう、成長して参ります。

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