「喪」をどのように考えたらいいのでしょう?
いつも親切なご回答有難うございます。
たびたび申し訳ありません。
「喪」は仏教の教えでしょうか?
「喪に服す」は穢れを伝染させないようにする、というような意味合いがあるのかなと考えているのですが…
個人的には「喪」は無くてもいいのではと思っていますが、お坊さんはどう考えるのでしょうか?
亡くなった檀家さんにも年賀状等は出していますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
服喪は仏教に非ず、されど行為自体が有意義な場合も有り
広辞苑によれば、「喪」とは「人の死後、その親族が一定期間世を避けて家に篭もり、身を慎むこと」とあります。これは、民俗信仰から来た言葉です。古来から日本人は死を恐れ、死体を恐れてきました。それは、死によって死者の体がケガレ、その家も親族もケガレてしまうと考えてきたからです。死のケガレが無くなるまで一定の期間が必要であり、その期間中身を慎むよう強いられてきたのです。。
「死によって死者がケガレ、その親族がケガレるから身を慎まなければならない。」という考え方は、仏教の教えではありません。服喪という言葉で他人の行動を縛りつけるのはおかしな事です。「喪に服す」という行為そのものが間違っている、と言うのではありません。これは、各人が自発的に行うことだと思います。ケガレていると言う俗信から他者の行動を規制するのは間違っている、と言うことです。
仏教的に「喪に服す」とは、追善また精進という行であるべきだと思います。故人の冥福を願って、何か善行を積む。供養の為に、自発的に自分なりの修行を始める。そういう意味での服喪なら、たいへん良いことだと思います。
服喪に関しての相談を受けた場合、「故人とその御遺族をケガレている。」と考えている人に対しては、「そんな服喪は止めなさい。」と私は申しあげます。かと言って、「シャ家族」さんの考えも正しいとも思えません。「喪は無くてもいい」というのも、いささか浅はかな考えのように思います。私は自分の父親が亡くなった後の新年に「あけましておめでとう」という気分にはなれませんでした。母親が亡くなった時も同様でした。服喪という行為自体が無意味だとは思いません。
服喪という行為や服喪と云う習俗は、地域によって差異があります。個人個人によって受け止め方が異なります。私は個人個人の受け止め方を尊重するようにしております。但し、他者を恫喝したり不安に陥れたりするような服喪の考え方に対しては、「それは間違っている。」と申し上げております。
以前、ブログに詳しく書いたことがありますので、参考にしてみて下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/3522648.html
http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/11920019.html
浄土真宗には「喪」はありません。
シャ家族さんと同じ想いです。
私は自分のお寺で『浄土真宗に「喪」はありません』とお話ししています。
「喪」が何か?「穢れ」とは何か?等を話し、浄土真宗は往生成仏の宗教であって死を避けて嫌う宗教ではないことを話します。
ただし、浄土真宗の常識は一般常識とかなり違う部分が多いので、理解して頂いた後はご門徒に任せています。
実際にはほとんどのご門徒が喪中ハガキを出したりしていると思います。
ちなみにはお寺からは葬式の有無に関係なく年賀状は出しています。
しかし配慮として「あけましておめでとう」のような文言は入れていません。
法要案内等を掲載し年賀はがきにて出しています。
仏教の教えではないが、死を受け入れる時間
シャ家族様
あなたの仰る通り、「喪」や「忌」などは死を穢れとして嫌う・避ける様な意味です。死は避けられないもの、諸行無常の中では当たり前のものと理解する所からはじまった仏教とは異なります。
ただ現実問題として、親しい方の死を残された者が確認し受け入れる「時間・期間」は必要です。今では使われない言葉で「殯(もがり)」の期間がこれに当てはまる感じです。また私達にとっては「死」を看る事で、限りある今生をどう生きるかを考える時間でもあります。
年賀状にはやっぱり「おめでとう」とは書けませんネ!「お浄土に生まれました!」といった内容の年賀状を頂いた事はあります。
「喪」は無くてもいいと言うより、既に常用化していますから「死を受け入れる」期間と捉えれば良いのではないでしょうか。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
喪が仏教の教えではないと聞かされてほっとしました。
お忙しい中にありがとうございました。