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生き様を見せているのでしょうか?

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お父様が長期のパーキンソン病で床に伏してから、先日誤嚥性肺炎を起こし、もうあまり長くはないでしょうという事で先日から家族で入院先に行きました。
私の大好きなお父様は、もう微動だにせず反応が全くなく目を大きく見開き瞬きもせず…という状態で見ていて切ない気持ち、何とも深く深く考えさせられる状態でした。
お父様は、ご自身の身を持って初めて人の死を直面するであろう私の息子達、孫達に死という姿を見せているのだろうか。子供は素直に「なんで?」と悲しみと戦っています。私は、「おじいちゃんは、この世の修行がやっと終わるんだよ。悲しい事では無いんだよ。神様が辛い修行はもう終わりだよ。って言ってるんだよ。」と話しました。
話しながら、自分で不思議な気分になります。一体「人間の死」とは?最期の姿を見せるというのは、凄い大事なメッセージがあるのでは?果たして何?
申し訳ございませんが、今の私はお父様の姿を前に少し気持ちが沈んでいます。今の私にでも、理解できるようご回答があれば嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死は偉大なるメッセージ

まだ死を迎えられていませんが「死」というものは、まさしく、これ以上にない説法です。
いままで生きて動いていた人が亡くなって急に動かなくなって冷たくなってゆくのですから、
その死を通して何を学ぶべきか。
何をみるべきか、何を受け取るべきか。
古来より大天才たちは早くから行動に移しました。
「鞭影をみて走るは良馬にあらず」
古来よりある喩えですが、すぐれた馬は鞭で叩かれる前に走り出します。
いずれ👻死は我が身に訪れるもの。
だからこそ、いざその死を迎える前に、人生の一大事を明らかにしてあらゆる苦しみを超える生き方を見出す。道をこころざす。悟り、安らぎを求める。
それが古来より優れた人間のとった道だったのです。
それが為に仏教、禅という東洋の叡智といわれる教えがある。
しかもそれが実践として残されている。
是非、これを機縁とされて父君様の無言の説法をうけて、これから待ち受けるあらゆる苦しみに直面して、そこでもがき苦しむ前に、その苦しみ全てを乗り越える道を歩まれる事をお勧めします。
私も自分で死を覚悟した時、最終的にその道を選択しました。
私の知人で30代のある立派な方が亡くなった時、彼は苦しむこともぼやくこともなく何もものいわず立派に死んでいきました。
生前は仏道に精進し、若くして仏道の大事を明らかにされ、私jの尊敬する師のもとで出家され、死を恐れることなく立派に死んでいきました。
彼は仏教を学んで良師に就いて30代にして道を明らかにされたからです。
死は死であってそれ以上のものではありません。
死とも言わず、生とも言わない。
それがそれとしてそうある。
死んでどこかへ行くというのはその死という事を本当にちゃんと受け止めていない姿であるように私は個人的に感じています。
お父さまが亡くなられたのちもあなたは生きていくのです。
その中でどう生きるか。
仏門は既に開かれています。
生老病死の苦しみを解脱する道を歩まれますことを。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。感謝いたします。ただ、今の私には少々難しいお話しみたいです。
このお話しの内容が分かるように日々精進していきたいと思います。
お忙しい中でのご回答ありがとうございました。

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