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怒りを鎮めたい

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最近、イライラしたりすると、すごくカッとなってしまいます。疲れているからと思っても、他人に対して、八つ当たりみたいになると、怒ったあとに申し訳なさが出てきます。それで、たまに自己嫌悪に陥ります。感情のコントロールをうまくするには、どういう考え方を持っていけばいいですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

期待 求め マイルールを捨てればいい

怒りというもののほとんどは自分のルールを押し付けているだけなのです。
それが思い通りにならんからプンスカイライラ激おこぷんぷん丸になるのです。
携帯、スマホの設定も、画面が暗い設定だと昼間、明るい所で見えません。
着信音が大きい設定だとお通夜中に鳴ったら総スカン。
その場にそれがふさわしくない設定だからです。
あなたも、その怒りっぽい設定をこの世に適した設定に変えましょう。
仏の設定というものがあります。
それが仏教の説く無我、無私。つまり「オレオレ・自分自分」した私ワタシ意識の少ないことです。
自分のあらかじめマイ設定があって、そのマイ設定がこの世に適していないのです。

急いでいる(設定)時に、赤信号、渋滞でイライラ
早く済ませたい(設定)時に、レジ行列でイライラ
「こうするべき」だと自分は思っている(設定)時に相手がそうなってくれない。
怒りっぽい性格の人は自分ルール、自分が正しいという設定が本人の中にあるのです。
そこに自覚を持って、その設定を変える、改めれ状況に合わせて変化させれば怒りは起きません。
ちょっと意地悪な実験をします。
「あんたみたいな奴にこんな話したってどうせワカランでしょうからこっちも時間の無駄ですわ。他いってください、アハハ!」と急に私が突き放したとします。
すると、前フリが無かったらカチンとくるはずです。
何故でしょうか。
お坊さんだったらこうあるべきだとか、優しくするべきだとか、
初対面なのになんて乱暴な言葉だ、自分を軽んじられたくないという気持ち、などの目に見えないあらかじめの設定が様々な形で働いているのです。
実際の「状況・現実・出来事・リアルタイム」というものは今日初めて出逢うもの。
どんな出くわしも「出逢い」です。
先日私は開店時からよく行っていた地元のラーメン屋「濃厚つけ麺◌◌◌◌◌」に一年ぶりに行きました。ところが出てきたものは、いつもの濃厚つけ麺とはまるで違うっ。
「濃厚」が売りなのに「しゃびしゃび」ではありませんか!OH
私はブチ切れて「何だこれは!このスープを作ったのは誰だ!」と海原雄山のようにブチ切れてスープを店内に投げつけました。
…ら、大変なことになるので、もちろんしませんでした。
人間、このようにいつの間にかどこかで「期待」していたりするもの。設定を解除してそれはそれとしてり食べました。濃厚しゃびしゃび麵。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

当たり前に感謝することから始める

しげちゃん様へ
こんにちは。拝見させていただきました。

怒りを鎮めたいとのこと。確かにイライラしちゃうと何事も上手くいかなくなったり、仏教的に見ても「苦しみの心の習慣」を生み出しその中に埋没してしまうとあらゆるものを偏ってみる生活になってしまうので苦しいです。

文面を読んで思ったのですが、イライラしたりすると書かれていますが、実は普段からどこかで「不満足」を抱えながら生きているのではないでしょうか。イライラすることによってバランスをとろうとしている。自分の奥底の感情に嘘をついて生きているか、あるいはたくさんの「未完了」(解決できていない気持ち)を抱えているかではないでしょうか。

人のことは言えず、私も課題を先延ばしにしてしまったりしてしまうのですが、まず一つひとつを完了させていくことが大切かと思います。イライラしたらイライラすることを押さえつけるのではなしに、イライラしたことを書き出してみて自分の心を知る事が肝要です。逆に一生懸命イライラしようとしてみる。そういうことで見えてくることもあります。

感情をコントロールするための一歩は「感情はコントロール出来ないことを知る」事です。
感情をコントロールしようとするから不満が出てくる。「自分の心が感じていること」を感じることです。

まずは、あなたの心の中に浮かぶ人に「言って欲しかった言葉」「かけて欲しかった言葉」を自分自身に声を出してかけてみましょう。

ハスノハでは相談に対して投稿者が御礼を書くことが出来るようです。私に礼は必要ありませんが、多くのお坊様が回答くださっているのでまず「御礼」を言うこと。それが「完了させる」ということです。感謝をする。そこから始めてみてはいかがでしょうか。応援しております。

合掌

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おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせていただいております。

腹式呼吸を勉強しましょう!

こんにちは、しげさん。
ストレスの多い世の中ですね。
自分も良くイライラします。
イライラよ鎮まれ!と言い聞かせても
感情をコントロールできませんよね。
手足なら言う事を聞いてくれますが
感情は非常に難しいです。
誰かの格言や、考え方を持っ来てもそれは
大概、一過性なものになりやすいです。
自分で自分の事は学ばなければいけません。
感情をコントロールするには腹式呼吸を学ばれるとよいです。
ヨガ、坐禅、マインドフルネス、瞑想など沢山ありますので
自分に合ったものを試してみて下さい。

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青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)

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