hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ペットロス

回答数回答 1
有り難し有り難し 39

12年前に飼っていたペットのことです。

小学生のとき拾った犬でした。
とにかく優しい性格で、私にとても懐いてました。小学校、中学2年まではしょっちゅう遊んでました。心が通じあってるような、親友のような存在でした。たくさんのエピソードがありますが、割愛します。

私は思春期になり、彼氏が出来たり、家出したりするようになりました。
その頃からあまり一緒に散歩に行かなくなりました。一緒にいる時間が少なくなり、死ぬような病気だと気付かなかったのです。
最近元気がないなとは思ってましたが、対処しませんでした。まさか死ぬとは思わなかったのです。

私が17歳のときに死にました。
死んだときは、母がおやつをあげてるときでした。おやつを咥えてからパタッと倒れて死んだそうです。倒れてから、母はおかしいと思って、2階にいる私を呼びました。死んでると気付いたときは目の前が真っ白になり、パニックになったのを覚えています。

私がもっとそばに居て見ていれば、、元気がないことをもっと深刻にとらえていれば、もっと長生きしたかもしれません。私が拾って、母にお願いして飼わせてもらったのに、私が死なせてしまったと、12年経っても思い出すと心が苦しくなり、涙がでます。

大好きなのに、思い出すと涙が出て、辛いです。辛いから思い出さないようにしようと思う自分も嫌です。

私がいつか歳をとって死んだら、天国で会えるのでしょうか。もう1度会いたいし、謝りたいです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ペットがロスではなくあなたのマイワールドがロスされた

まず、ペットというものは無条件の愛で人間の損得めいた愛ではなく、条件抜きに可愛らしい、愛らしい、と思うゆえに依存的な情愛になりやすい、ということがあります。
それがぺットに対する情愛、愛情のあらわれです。
ああ、可愛らしかったなぁ、と思った犬や猫は私もお寺ですので、いろんな人が捨てて行ってしまうので沢山思い返されます。
どの犬、猫、ニワトリにしたって可愛らしいものです。
ですが、乞うお考えいただきたい。
「それらはそもそもが自分のものではない」天地にただ一匹の存在だった。
人間は天地自然に存在する犬猫を自然界から切り取って「わたくし化」します。
それが本当に本当のところは私は良くないことであると思っています。
本当は、野生の動物は野性で天寿を全うするべきもの。
人間の私的な取り込みが生じることで仏の有りさまをとどめてしまうのです。
ペットロスという言葉が数年前から流行りましたが、ペットロスの本質は、ペットが居なくなって寂しいという気持ちが続くことのみならず、「わたしの〇〇」が失われた感情でもあるのです。
そこを冷静にみつめて、見極めてください。そもそもが天地自然界に存在していた生物を私がわたくし化してしまった。
あなたが本当にその子を送りだしたいと願うなら「わたしの」という気持ちも首輪を外す時にかえって、天地の存在にしてあげてください。
今日は、そういうつもりで手を合わせてみてください。
その子に「わたしの」という気持ちを抜きにして、尊厳を認めてあげることで、ちゃんとお互いが成仏します。ちょっと、深いことを申し上げました。
何度か読み返してください。意味が分からなけれが親御さんに読んでもらって意味を解説してもらってください。そうすれば、みんなでその子を送りだせることになり、新しい一歩を踏み出せるはずです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

とても深い内容のご回答ありがとうございます。何度も読み返して、ほんとの意味を理解します。今までずっともやもやしてましたが誰にも言えませんでした。ここで言えて良かったです。ありがとうございました。

煩悩スッキリコラムまとめ