なぜ拝むのですか?
拝む意味を知りたいです。
お釈迦様や仏教の教えには興味がありますが拝むことに抵抗があります。
「拝む」ことが成仏したいからとか、仏様に縋る気持ちであるのなら凄い強欲に感じます。
以前、法話会で「仏様を拝んでいたら逆に仏様に拝まれていたことに気付いた」みたいなことを教えてもらいました。
拝むことで欠けている自分に気付いたり、振り返ったりできることが拝むことの一つなんでしょうか?
自分に欠けているものを見つけることでより良い自分を目指すも強欲に感じます。
それとも欲ではなく「感謝を知る」ということなのでしょうか?
仏教の知識が豊富というわけではありません。
拝む意味を簡単に教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様の声を聞く
私にとって「仏様を拝む」とは、「仏様の声を聞く」ことです。
「仏様の声を聞く」とは、「仏様に願われ、生かされている私を知る」ことです。
「仏様に願われ、仏様に生かされている私を知る」とは、「煩悩のままに救い摂ろうとするはたらき(縁起のはたらき)の中に生かされている私を知る」ことです。
以上のように、私にとって「仏様を拝む」とは、決してあることに対する祈願行為ではありません。
ただ拝むこと 無為
人間、生活の究極は、何をするにしても、そこに何かの為、自分、世の為、人の為、と理由付けを離れる事です。
拝むことに限らず、目的もなにも持たずに、ただ行うことに徹してみてください。
「ただ=只管に=私見を交えずに=目的なしに=意味付け無しに=無所得に=仏行」
何を為すにしても、無為=心のはからいが無いながらに為せることが大切です。
草を引っこ抜いて殺生じゃ、手を合わせるのにどういう意味じゃ、と思いの添え物をせんからこその無心無為の仏行の拝みなのです。
❝事実は一つで、解釈は多種多様。❞
日常料理や散歩をしている時だって、誰かのために、ということも無しにやっている時があるでしょう。
それが、只管・無所得・無為の行為です。
今も、なにともなしにただ読んでいたはずです。
こういう状態の事です。「ただ」拝めるようになれると生活の全てが蛇足事が無くなります。
あれこれ思いを添えずに、おこなってみてください。
もちろん願いや、求め、誓願、懺悔、供養、挨拶、感謝、敬礼のために拝む人もおられるでしょう。
ですがそれは後から添えられた観念上の意味づけ、後天的に生まれた仏教思想的添え物なのです。本当の仏法とは、知識や意味づけ以前の、真実のすがたに目覚める事です。
よって本当の拝みとは、そこに意味を添える以前のただ純粋無垢なありようです。
以下ご参考まで
★
ある日、黄檗禅師が仏殿で礼拝をしていた所、
Q「仏も、法も、僧について求めないのが仏法でしょう。さてアナタは礼拝して何を求めているのか」とちょっかいを出す質問をした。
すると黄檗は、顔面をぺチンとはたいて
「コレの何処に仏やら法やら僧なんぞを求めとる姿があるろいうのかね?あなたがそう思いを持ち込んだだけじゃろ。われ、ただ礼拝することかくの如し」と答え、また礼拝を続けたという。
(゚д゚)
★
「クマのぷーさん、何をしているの?」
「何もしない、をしているんだよ。」
「じゃぁ、まだしているんだね」
「していないよ」
「していない事をしている、という臭みに気づかんようじゃまだまだ浅いねぇ」
「(゚д゚)!」
クマのぷーさんは、それ以来、痛い所を突かれてリアルニート「プー」になってしましまったとか。本当に何もしない無為に目覚めたとか。
本当の無為とは行いながらも自分の思いのラベルをそこに貼らない行いなのす。
「拝む」は信仰の一部
浄土真宗は阿弥陀如来を拝みます。
それは「助けて下さい」と拝んでいる訳ではありません。
「阿弥陀様、いつもありがとうございます」と手を合わせています。
別に拝まなくても問題ありませんが、拝みたいと思っているのでしています。
いつも頂くご利益に対して、手を合わせ念仏申すぐらいしかできないのでそうしています。
知性と勘を磨いておきましょう
追いつめられ、藁にも縋る思いになる時、拝むという行為が現れます。たとえば突然、不治の病に罹っていると宣告され、いのちが惜しいというよりも、どうしてもやらねばならないことが頭に浮かんでくるならば、どうするでしょうか?たとえば突然、乗っている飛行機にトラブルが発生し、近くの海に不時着せねばならないとアナウンスされたならば、どうするでしょうか?自分の力では何ともならないけれど、何とかしないではいられない状況に直面し、不可を突きつけられた現実の前にありながら可能性を捨てきれない状況下で、神も仏も、たち顕れます。歎きの極みで自死を選んだり、自暴自棄から自滅的行動へ走ったりするかも知れません。しかし、そこへ行ってしまう前に、祈りが生じることも少なくないのです。こうして人は拝むようになります。
もちろん、どんなに追いつめられようと自分以外のものに縋らないタイプの方もおられ、人さまざまです。また、追いつめられる体験の薄い方も当然、水へ入ったり落ちたりしたことがない人には水泳が何であるか実感的に掴めないのと同じく、縋り拝む行為を知り得ません。当山は常々「困った時の神頼みでもいいんですよ」と申し上げています。それは、縋るのが人として自然な行為であり、そこでは自己中心的でない世界が開きかけているからです。ただし、「困った時の神頼みだけでいいですよ」とは決して申し上げません。言うまでもなく、いつまでも自己中心から抜け出られず、〈困った時〉が次々と訪れる人生から脱皮できないからです。
ただし、神頼みになれば、知性と勘が試されます。この二つがはたらかないと、つまらぬものや、利用しようと待ち構えている者や、陥れようとしている者につかまるかも知れません。この場合の知性とは知識の量ではなく、ものごとを客観的に見て、検証し、試し、納得するという手順を践む力です。また、勘とは、いわゆる霊感や山勘ではなく、良識や見識に裏打ちされた健全に生きる方向を見誤らない力です。二つの力を身につけ、神頼み的状況で沈没してしまわないためには、学問をやらねばならないのではなく、問題意識を持って自他を観察し、周囲に起こるできごとの本質や意味や意義を自分で考えつつ生きればよいのです。そうすれば、まっとうな拝む対象と縁になり、神頼みしかない状況が訪れた時、きっと、オタオタせず、落ち着いた合掌ができることでしょう。
尊敬・賛同が、教えを学ぶ意欲につながる
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。 「生かされている私を知る」事。 祈願行為でなく ホッとしました。
「活かされている私を知る」、私なりに考え、感じてみます。
ありがとうございました。
丹下 覚元 様
とても貴重なご回答ありがとうございます。 実は私も「無為」に同感です。
私の考えていたことと仏教でいうところの無為が同じかどうかは定かではありませんが、
明日、なにか高貴なものになろうと(悟りとか)そういう目標みたいなものを求めるのではなく、そうありたいと思うのであれば一旦そのこだわりから離れ、日々の日常の行いで自分ができることを淡々と為していく。
その瞬間を精一杯生きることで結果的に在りたい姿に近づいて死んでいけるのかもしれない。 (近づくことなく死んでいくかもしれないが・・)
人生とはそういうことでいいのではないか!?それがお釈迦様でなく人間らしい生き方・死に方ではないかと思っていました。
こう思っていたからこそ、なぜ拝むのか!?と疑問に思ったわけです。
拝まなくとも日常の理不尽さや自分の身勝手さに目をつぶるのではなく見つめて凹んだりホッとしたり救われたりしながら淡々と為すべき今日を生きていくことが大切ではないかと思っています。
うまく表現できませんが…、無為 頑張ってみます。
ありがとうございました。
願誉浄史 様
”教えを学ぶ”
教えを知りたいと思いました。
少しづつですが学んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
釈心誓 様
感謝の気持ちを表すということですね!
納得です。
私は感謝を感じた時には「神様 ありがとう」と心でつぶやきます。
別に西洋宗教を信じているわけではありませんが…、私の先祖は浄土真宗のお寺をしていますから。
阿弥陀様もいらしたこと、今度は思い出してみます。
ありがとうございました。
遠藤龍地 様
なかなか解釈難しいです。 拝読させていただいて、思い出したのは子供の頃は辛いことがあるとすぐ神頼みをしていました。 当然のことですが、神様なんて現れず拝んだ通りにはなりません。で、「神様なんていない!誰も助けてなんてくれない」と怒り拗ねていました。
年月が経ち、人生に色々あり、自分自身を省みる作業の中で次第に神頼みをしないようになりました。
そのかわり、「起こったことは自分の選択の結果」と思うようになったのです。
不思議ですがこう思えるようになってから、神様(人の作った神ではなく、人の手の及ばない畏怖の念を抱くような何かという意味の神です。宇宙と言ってもいいです)に感謝できるようになりました。
ものごとを客観的に見て、検証し、試し、納得する知性、生きる方向を見誤らない力(勘) 身に付けて行けたらとても幸せになれるような気がします。
でも、ほど遠~~~い現在地点! できるかなぁ~。
ありがとうlございました。
亀山純史 様
一番最初のお礼は亀山様へです。