自分が嫌いでたまりません。
家事のちょっとしたミスをしたとき、家族と接するとき、勉強中…etc、一日の中で何度も些細なことが気になり「だから自分はダメなんだ」と落ち込みます。(しんどくなると何も手を付けられなくなってまた落ち込みます。苦笑)
私は、両親が父のDVが原因で別居しているものの、大切に何不自由無く育てられたし、周囲の人間にも恵まれ幸運だなと感じています。(父を許せない思いは手放せていませんが…)だからこそ「こんなに良くしてもらっているのにダメな私は自分自身を活かしきれていない。皆に恩返しできてない。」と苦しくなります。また、福島原発事故により退去を余儀なくされた数万人の方々や、農家は商業用作物には化学肥料や農薬を大量に使うのに自宅用の野菜には健康のため極力農薬を使ってないという現実、抗がん剤を患者には投与するが医者自身は癌になっても使いたいと思っている人は少ないこと(医師である母がそう言ってます)などの社会的矛盾を思うと心が締め付けられます。スーパーで有機野菜を選ぶ時も「自分達さえ良ければそれでいいのかな?」と葛藤してしまいます。とにかく全てが裏目に出てしまうんです。
色んな本を読んで、感情も思いもこの世に起こる全ては単なる記憶であり実態が無いことを知りました。そこで毎日、お祈りではないけど“感情から逃げずにただ見つめる”ことを意識的にするようにしていますが、でもやっぱりしんどいです。
これは単なる私の甘えから起きてるだけのことかもしれないし、一生の中でのこれを体験すべき時期であるだけかもしれません。こんな私に叱咤なり、心が軽くなるアドバイスなりいただけたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
恩返しをする必要はありません
よく『親孝行をしなさい』という話をよく聞きます。
確かに親孝行は大切なのかもしれませんが、何が親孝行なのかを考える事がもっと大切なのだろうと思います。
『貰った恩を返す』という行為は果たして孝行なことなのでしょうか。
仏教は仏様から頂くお慈悲を聞かせて頂きます。
しかし、そのお慈悲を仏様にお返ししようという教えはありません。
そんなことはとてもじゃないけどできないからです。
ただただ仏様のお慈悲を頂いて喜んで生活を送ることが私たちの精一杯です。
人から貰った恩を返すということは、言い方は悪いですが「借りを作りたくない」ということです。
頂いたものは返してイーブンにしておきたいのが私の本性でしょう。
そうでなくて、頂いた恩をそのままに喜んで感謝の生活を送らせて頂くことの方が尊いのです。
親が喜ぶ子の姿は、頂いた命を存分に楽しんで生活を送っている姿だろうと思います。
楽しそうなmioさんの姿を見せてあげる事こそが親孝行だと思います。
ダメな自分でもいいのです。
よくなる必要などありません。
そのままでいいと許される教えが阿弥陀如来の教えです。
感情に気づいて長引かせないように
10分考えて答えが出ないことを、同じ情報の中で10時間考えたって、答えは出ないのでは。
そういう妄想グルグル堂々巡りはよくありません。
同じ情報の中で答えが出ないなら、新しい情報を、新しい景色を見るために、一歩動いてみるのが良いでしょう。
ここに相談に来られたり、それも一歩ですね。良いと思います。
心には、悩み苦しみの原因となる煩悩が渦巻いています。
欲・怒り・怠け・プライド等です。
自分が嫌いというのは怒りですが、嫌いだ嫌いだの妄想をくりかえし考えたくなるのは怒りの反対の欲です。
やるべきことをやらずに妄想にふけってしまうのは怠けでもあります。
自分が嫌いの裏には、自分は素晴らしいと思いたいプライドがあります。
プライドが高いから、理想の自分に遠い現状に怒りがわく。
嫌な気分でしんどくなったら、「欲・怒り・怠け・プライド」と念じてみてください。
どれか一つの煩悩にあてはまっているはず。
煩悩は悪魔に例えられます。この煩悩の悪魔は、正体を見破られる(煩悩だとバレる)のが弱点です。
見破って見破って見破り続けましょう。さぁ、今日から、修行です。一生とりくめる課題ができました。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。「ダメな自分でもいい」…気持ちがちょっと楽になります。お釈迦様も妻子を置いて勝手に修行にでちゃって常識的に考えたら結構「ダメ」ですよね。でもそのおかげで悟りを得られたのだから、何が良いのか悪いのかそんなことどうでもいいのかもな…とちょっと思いました。