浄土真宗と観音霊場について
はじめまして。
先日、とある観音様を拝ませていただいた時に涙が出るような、心洗われるような感覚になりました。
またあの観音様のお姿を拝ませて頂きに行くときに、失礼のないようにと、色々と調べていました。
そこで知ったのですが、観音様には般若心経を納めるとのこと。
しかし、父方も母方も浄土真宗の家系で、子どもの時から心で手を合わせる際は南無阿弥陀仏としてきました。
そのような人間が般若心経を写経したものを観音様にお納めすることは、浄土真宗を信仰していたご先祖様や、観音様に失礼になるのでしょうか。
教えて頂きたく思います。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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観音様は阿弥陀様のお慈悲
ご相談拝読しました。
般若心経を写経したものを観音様にお納めしても、ご先祖様や観音様に対し失礼にはあたりませんよ。
浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来と観音菩薩は密接な関係にあります。
阿弥陀三尊といい、阿弥陀如来が、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされます。
観音様は阿弥陀如来の「慈悲」のはたらきを象徴しているのですね。
また、浄土真宗の宗祖親鸞聖人は比叡山での修行ののち、六角堂に参篭しております。六角堂は聖徳太子の創建でご本尊は如意輪観音像です。
親鸞聖人はここで観音様(聖徳太子)による夢のお告げをお聞きになり、師となる法然上人の元を訪ねることを決意したというロマンあふれる伝説も伝えられています。
観音様と阿弥陀如来、浄土真宗の関わりについてご理解いただけたでしょうか。
さて、私としては少し気になるのが「心洗われるような感覚」という点です。またそのお姿を拝みたいというのは大変けっこうなことでありますが、もしもそこで拝むことにより、
ご利益を得たい
何か良いことを導いてほしい
悪いことを遠避けてほしい
なにか神秘的快楽を再び味わいたい
という思いがあるのならば、「心洗われて」というより「心濁って」ということになってしまいます。
仏教の大事とするところは、ひと時の神秘体験や恍惚体験ではなく、たしかなる仏の智慧と慈悲によりこの私の「どこまでも心洗われない姿」が明らかにされることであります。
信仰については仏と私の一対一の世界でありますので、紗代様のこの度の信仰体験について誤解があったようならば大変失礼をばいたしました。
是非とも観音様信仰を大切にしつつも、阿弥陀の願いに包まれ、南無阿弥陀仏のお念仏のいわれをお聞きいただきたいなあと願います。
それこそ、阿弥陀様のお慈悲、つまりは観音様のお導きといただけるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏
合掌
好きにされたらよろしい。
私たちは悩める凡夫です。
凡夫というのは、気持ちが定まって、
おらず、あっちにいったり、
こっちにいったりするということです。
宗祖親鸞聖人さまは、比叡山における
生死を懸けるような厳しい修行をされましたが、少しも悟ることができす。
道を求め、法を求めて、
行き詰まって、六角堂、観音堂に
籠られました。
そこで夢のお告げを受けて、
お師僧さまの、法然聖人さまと、
劇的なご対面を果たすことなるんです。
愚僧の私も紆余曲折、悩みに悩んだ人生の末に浄土の教え、お念仏に行き着きました。
ですから、念仏一乗ですが、
我が身を振り返る時、
いろいろな教えを味あわせていたく
ことは大切だと思います。
最後はお念仏に戻ってきていただきたいとは思いますが、それもこれも、
あなたさまが決めること。
よりあなたにとって、幸福である、
教えを選びとったらよろしいかと、
思います。
選択本願 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
お二方共に、ありがとうございました。
とてもありがたいお話を頂けたと、質問をしてよかったとおもいます。
心濁った参拝にならないように、心掛けたいとおもいます。
色々な教えに触れ自分の心で、選んでいきたいとおもいます。
まずは、その観音様にまた来ます、と言って来たので写経したものを納めにまたいきたいと思います。
ありがとうございました。