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頑張ったことがないです

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先日、今までの自分を振り返る機会があったのですが、何かに本気で取り組んだことがないと気が付きました。気付いていないわけではないと思います。どれだけ考えても見つかりませんでした。
何に対してもとりあえず怒られない程度にこなして、頑張っているつもりでした。

努力の仕方がわかりません。自分でも甘いと思います。
このまま大人になると思うとこわいです。何かに夢中な人を見ると苦しくなります。わたしもそうなりたかったです。

また、頑張りたいというのは本心ですがどこかで頑張ってるということを褒めて欲しいだけのような気もします。
頑張ってるね、と言われたいです。
怠けてばかりなのにこんなことを考えている自分に嫌気がさします。

わたしは変われますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご自身に不向きな事を無理して頑張ることは負担。

自分にしかできないことをやればいいのです。
私にマンガをかけ、ダンスを知ろと言われても向いていませんので、いくら頑張っても花咲きません。
だから、やっていません。
あなたは頑張りがないということは、単に逃げてきたというよりは、本当に自分がスムーズにできることに「出会っていない」だけなのかもしれません。
人間、自分が苦手なことはそこそこのことは出来るでしょうが、何でもかんでもそつなくこなせるというものでもありません。
あの人は何でもできるなぁという人がいるでしょう。
それはその事が好きなのです。
もしくは「何でもそつなくこなせることを人に見せることが好きだったりする」からそれをモチベーションとして、何でもそつなくこなせるのです。
そういう力を用いる事も大事です。
あなたも「わたしは頑張りが足りない」ということがマイナスに働いているだけなのです。
それを「まず自分がスラスラできることをやる」ということをプラスのエネルギー、活動源にしてやってみると良いでしょう。
上級編は、どんなものも「やる以前から【私には無理・不向きだ】」と決めつけずに、やり続けることです。
長年バンドをやっている人はだいたい色んな楽器ができるようになります。
コツがわかるからです。
何か一つととことんやると、その分野のコツを会得出来るようになります。
どんなに何もできないという人であっても、五感を通して何かは見聞きしたり、感受しているのです
もしくは頭の中では楽しいことや、自分の好むことを自然に選択しているのです。
夫婦の食生活が違うだけでストレスになる人もいます。それは無理な頑張りなのかもしれません。つまり頑張ればOKというのは100%正しい教えではありません。
私も自分のできることしかやっていません。
分りやすく言えば朝はご飯派なので、ベーコンとかパンは進みません。
自分のできる事を頑張りもせず、ただ淡々と黙々とやるだけです。
ですから「頑張らなきゃ」ということを捨ててみましょう。
それよりも「自分がスムーズにできることを人はやっているだけ」で頑張っている訳ではない、と知りましょう。無理して頑張って頑張りすぎて人生病んでしまう人もいます。だとしたら間違った頑張りをしない。自分意適切な事、自分に本当にフィットすることしか頑張らない、を頑張りましょう。
勿論なんでも頑張っても良いのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

今までの貴方が問題なのではなく、今、葛藤している貴方が大切

こんばんは。

そうですね、歯痒くもあり悩ましい問題ですね。
私事で恐縮ですが、私は大学卒業間近まで、なんとなく「このまま卒業して、お寺を継ぐんだろうなー」程度にしか人生を考えていませんでした。将来の展望も、自分は何をどうしていきたいのかもろくに考えず、既定の路線をただ無難に進んでいました。子どもの頃に持っていた夢も、大きくなって現実を知るうちに忘れ去り、いつの間にか世襲制に甘え切って自分の頭で歩こうとしなかったんですね。
それが、ある時に運命的な出来事を経験したり、ある人物との出会いによって、私の人生はとても豊かになりました。そして、ぐぐぐーん!と回り道をして、ようやく自分のお寺に戻ってきたのですが、今ではその経験が大変に役立っています。

誰にでもやる気スイッチというのがあって、それは「明日から頑張るぞー!!」ってスイッチを押しても長続きはせず、スイッチを押すタイミングをいくら待っていてもやりたい事が向こうから近寄ってくる訳でもないんですね。
大切なことは、いろんなことに興味を持って、好奇心旺盛にアンテナを立てておくことです。もしかしたら、貴方が生涯をかけて取り組みたい夢が見つかるかもしれません。頑張って人に認めてもらいたいという思考は自然ですし、それが原動力になっても構わないのです。

今までの貴方が問題なのではなく、今、葛藤している貴方が大切。

シラケた目でしか社会を眺められない人は、シケた人生しか送れません。葛藤して、ジタバタして、不器用でも、貴方の生き方を鮮明にしていって下さい。

貴方はすでに変わり始めていますよ。

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有り難し
おきもち

初めまして。桑木茂光と申します。 大阪最北端に位置する能勢町にございます蓮華寺というお寺を預かっております。 We are the ones who make a brighter day!☆明るい明日を作るのは僕らの仕事! お寺と病院を掛け持ちしながら、こんな言葉を胸に日々ジタバタしております(^_^;) どうぞよろしくお願い致します。

心配ありません。だいたい皆んなそうです。

心配ありません。だいたい皆んなそうです。

今、回答している私自身も半世紀生きて、何かに本気で取り組んだ、と胸を張って言えそうな記憶がありません。

平均寿命の半分以上すぎて、今頃ようやく本気を出さなければならないような課題に向き合いつつありますが、「これが正解」というような努力の方法もよくわかりません。

誰でも一生のうちには本気を出して向き合わなければならないものに出会うもののようです。
その時のために、たくさん本を読んだり、心身を鍛えるなどして力を蓄えて下さい。

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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。
少し焦りすぎていたのかもしれません。
自分のペースで自分らしく生きていこうと思います。

あまり文を書くことが得意でなく、感謝の気持ちが思うように伝えられず申し訳ありません。
ですが前向きになることができたのは事実です。
本当にありがとうございました。

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