不公平だと思ってしまう
私は看護師を目指している学生です。
また、定期的に乳児院にもボランティアに伺わせてもらっています。
最近、実習で出会う病気で闘っている方や乳児院の虐待やネグレクトなどの理由で生活しているこどもたちとのふれあいから、なんでこんな優しい人・子どもが
こんな理不尽な目に遭わなければならないのかと思い悔しく思ってしまいます。
また授業中は友だちとメールして課題などで難しいところや面倒なところがあるときだけ私のところへ来て助けてくれと言ってくる人がおり、そういう人以外でも人を平気で傷つけたり馬鹿にする人が目についてしまい、人の気持ちも思いやれないのに楽しそうにしているのを見ると真面目にやっている自分がばかばかしく思えてしまいます。
このようなことから質問です。
世の中はどうして自由度や幸福度、苦痛の少なさ等で理不尽に傷つく人がでるように不公平に出来ていると思いますか。
また、人を傷つけやすいひとと苦痛の強いひと、どちらも否定せずに受け止められるバランスの良い考え方は存在しますか。
まとまりがなく申し訳ありません。
どんな意見でも良いので、ご回答がもらえたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
またここまで読んで下さっただけでも
ありがたいです。
ありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
怒りより願い。
こまち様 聴かせてくれてありがとうございます。
理不尽な目に合わせたものを責めるより、
目の前の子どもに何ができるか。
理不尽な扱いで生じる怒りの感情も分かります。
だけど、僕がよく読むお経の仏様は怒りではなく、悲しみをはたらきのベースにしていることが多いようです。
怒りを相手への叱責に転じるのではなく、悲しみを願いに変えて私たちに働きかけている存在です。
ご自身の真面目さと周囲の尊さ、自身の至らなさと他者の欠点であれば比較はできますが
ご自身の真面目さと周囲のお気楽さを比較しようとしてもズレるのは当然です。
理不尽な扱いをした親も、ホントはどうなって欲しかったんでしょうか。
子どもが理不尽さに振り回されることをこれ以上望まない一面もあったから乳児院への措置に同意をしたと思います。
真面目さが報われるのは他者との比較ではなく、将来の自分によってだと思います。
容易な道ではありませんが、私も仲間の僧侶たちとファミリーホームを立ち上げたいと願っています。
こまち様の真面目さがこの先報われますよう願っています。
一人ひとり物差しが違うのが人間の社会です。
そのように心悩むのは、たえず自分の持っている感覚の物差しで他人との比較をしているからだと思います。
虐待や育児放棄を受けてしまったお子さんたちがその後も不幸な人生を歩むのかというと必ずしもそうではありません。他人からは恵まれているように見えるお子さんたちもその後の人生では大きな苦痛を味わうことはあるでしょう。
この世に生きる人間には自分と同じ人間は一人もいません。それぞれが異なっていてそれぞれ境遇も環境もそして人間として持っている心の物差しもバラバラなのです。
でも、そういう世界で一人一人がそれぞれ輝いて生きていくことが大切で、それにはそれぞれが異なっていて当たり前で、それはそれで悪いことではないという前提を持たないとつらくなります。
ご自身で真面目さと表現されていますが、ある意味自分の持っている物事の判断の物差しが絶対に正しいという前提で他を見ているという自分にも気がついていただければ、少しはものの見方が変わるのではないでしょうか?
人が10000人いれば10000通りのそれぞれの物差しをもって生きている人がいて、自分に近い方もいれば異なる方もいる。でも、それが人間世界であって、それを認めあって他を許容してく心を養っていけばご自身の自由度も広がり、幸福感の見方も変わってくると思いますよ
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
私には無い見方を下さって勉強になりました。
本当にありがとうございました。
ご回答ありがとうございます。
自分のものさしで人を測らない関わりをしていけるようにしたいです。
ありがとうございました。