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座禅のしかたについて

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有り難し有り難し 18

気持ちを落ち着けることができるだろうかとおこがましくも座禅をしてみようとしたのですが、いくらも経たないうちにいろいろな思いが頭の中を駆け巡り、かえって自分の未熟さにいらついてしまいます。座禅を組むときは心を無にしてと言われますが、どのようにすればよいのでしょうか?呼吸に集中してということをきいたこともあり、そうしてみるのですが、どうしてもいろいろなことを考えてしまいます。

2015年6月21日 23:55

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の心の中の活動は「A」「B」「C」のいずれなのかを知る

最近では、歩く瞑想、食べる瞑想、坐る瞑想と言われるように、
坐禅は、まさに四六時中の瞑想状態です。
セルフの思い、我念の無い事を坐禅と言います。

坐禅となにか。
坐とは「 外の事  に 影響 を 受けない心」
禅とは「内なる思い に 影響 を 受けない心」です。

坐禅、瞑想、ヨーガの究極とは、思いを停止・死滅させることではなく、
むしろON・OFF自在になる事。

ここに共通することは、無心ではなく、無私、無我です。
無私、無我である我念のないことが無心と言えど、ON:・OFF自在の生きた無心なのです。

思いには二種類あります。
自然に出てくる公的な思い と 我念(セルフな思い)です。
坐中に思いがポンポンそれは発生当初は公的な思い。
出てきても、我念が無ければ、それが禅。

今もこうしている中で、そこにセルフな思いを働かせず、出来事だけが只ある様子。…坐
事実だけが只そこにその通りにあって、思いが沸き起これども影響を受けない状態。…禅
それを坐・禅なる状態というのです。
坐っている時の事ばかりが坐禅ではありません。

自然に出てくる思い。
それをAとします。
Aの思いは、何もしようとしなくても起きてくる全自動で公的なもの。
その思いAに、ノータッチで「B」で過ごします。

「C」手を付けることは我念のはたらきです。
自分の思い通りに運ばせようとする、自我があるからである。

人間は何かをいつも「やろう」とする。
こういう説明をしても何か我が身に良かれと「やろう」とする。
それが一番の邪魔者、我念「C」なのでる。

「やろう」とするから、さらに一念=心の行いや副産物「D」 が 起こり、それが消えない。

だから多くの人は「無になれない・難しい」と言うのです。
ハナから目指す所を決めてかかっているからイケないのです。
その時点ですでにそれは坐禅をしていない。
それは心の中で狙い所をつけて、そこに向かおうとしているセルフな思いCに過ぎない。
「難しい」といわれる人は、難しいという一念を起こし、それを採用して握る。
それこそが思考「C」です。それすらもやめてしまうこと。

本当になにもしない。「しない」という一念もしない。
そうすれば自我意識を忘れ、一切と隔てのない、もとよりの脱落身心(悟り)に至れます。

日曜禅会での講話より一部抜粋

2015年6月23日 0:37
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

頭で考える世界から離れる

坐禅に興味を持たれたとの事、素晴らしいですね。
しかし、坐禅をする事で何かを得ようとか、何か特別な事をしているという気持ちでやっていられるなら、その気持ちは捨てちゃってください。

無というのは簡単なことではないかと思いますが、考えないように考えてもダメなのです。
考えが浮かんできてもそのままに、追求しない事です。うけながしていきます。今目の前の事、ありのままを受け入れていくのです。
自分というものも相手というものもなくなるのです。

私も日々修行しています。共に頑張りましょう。

2015年6月22日 6:37
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

邦元さま、ご回答ありがとうございました。いろいろな考えが湧き上がってきても、湧き上がるままに湧き上がらせておいてもよいということでしょうか?それもなかなか難しそうですが、頑張ってみます。ありがとうございました。

丹下様、ありがとうございました。現実逃避の手段としてたのもしれません。もう一度考えを新たにしたいと思います。

「坐禅について」問答一覧

寺に行かない方がいい人

私は家から50分程にあるお寺で数年坐禅をさせて頂いています。朝早く毎週のように通いすわっております。その後法話を頂き帰るのですが、最近数十年そこに参加している方とお話しするようになりました。仏教にも精通されていて真面目に取り組んでおられる方です。その方からあなたは朝早く遠くから来て大変でしょう、毎週でははく1ヶ月か3ヶ月に一度こられたらよろしい。と言われました。私にとって坐禅は辛い仕事が終わって一週間の切り替えできる場所になっていました。静かに目立たないようすわっていたと思っています。しかし、長年されている方からそのように言われその時は泣くのを我慢していたのですが、涙が止まりません。親切心でおっしゃってくださっているのだとは思いますが、自分が居ては他の方に迷惑をかけているのではないか?ふさわしくない人間なのか?お寺の方から言われた訳ではありませんが、信徒さんにとって何か違和感を覚えるような人間なのか?と自分を否定することばかり考えてしまいます。私にとってまさに駆け込み寺であったはそこのお寺は大好きですが、そう思われていてこれから行くことは難しいなぁと考えています。自分としては続けていきたいと思っていただけにいきなりの事に悲なしくて仕方ありません。

有り難し有り難し 56
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