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座禅のしかたについて

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有り難し有り難し 21

気持ちを落ち着けることができるだろうかとおこがましくも座禅をしてみようとしたのですが、いくらも経たないうちにいろいろな思いが頭の中を駆け巡り、かえって自分の未熟さにいらついてしまいます。座禅を組むときは心を無にしてと言われますが、どのようにすればよいのでしょうか?呼吸に集中してということをきいたこともあり、そうしてみるのですが、どうしてもいろいろなことを考えてしまいます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の心の中の活動は「A」「B」「C」のいずれなのかを知る

最近では、歩く瞑想、食べる瞑想、坐る瞑想と言われるように、
坐禅は、まさに四六時中の瞑想状態です。
セルフの思い、我念の無い事を坐禅と言います。

坐禅となにか。
坐とは「 外の事  に 影響 を 受けない心」
禅とは「内なる思い に 影響 を 受けない心」です。

坐禅、瞑想、ヨーガの究極とは、思いを停止・死滅させることではなく、
むしろON・OFF自在になる事。

ここに共通することは、無心ではなく、無私、無我です。
無私、無我である我念のないことが無心と言えど、ON:・OFF自在の生きた無心なのです。

思いには二種類あります。
自然に出てくる公的な思い と 我念(セルフな思い)です。
坐中に思いがポンポンそれは発生当初は公的な思い。
出てきても、我念が無ければ、それが禅。

今もこうしている中で、そこにセルフな思いを働かせず、出来事だけが只ある様子。…坐
事実だけが只そこにその通りにあって、思いが沸き起これども影響を受けない状態。…禅
それを坐・禅なる状態というのです。
坐っている時の事ばかりが坐禅ではありません。

自然に出てくる思い。
それをAとします。
Aの思いは、何もしようとしなくても起きてくる全自動で公的なもの。
その思いAに、ノータッチで「B」で過ごします。

「C」手を付けることは我念のはたらきです。
自分の思い通りに運ばせようとする、自我があるからである。

人間は何かをいつも「やろう」とする。
こういう説明をしても何か我が身に良かれと「やろう」とする。
それが一番の邪魔者、我念「C」なのでる。

「やろう」とするから、さらに一念=心の行いや副産物「D」 が 起こり、それが消えない。

だから多くの人は「無になれない・難しい」と言うのです。
ハナから目指す所を決めてかかっているからイケないのです。
その時点ですでにそれは坐禅をしていない。
それは心の中で狙い所をつけて、そこに向かおうとしているセルフな思いCに過ぎない。
「難しい」といわれる人は、難しいという一念を起こし、それを採用して握る。
それこそが思考「C」です。それすらもやめてしまうこと。

本当になにもしない。「しない」という一念もしない。
そうすれば自我意識を忘れ、一切と隔てのない、もとよりの脱落身心(悟り)に至れます。

日曜禅会での講話より一部抜粋

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有り難し
おきもち

頭で考える世界から離れる

坐禅に興味を持たれたとの事、素晴らしいですね。
しかし、坐禅をする事で何かを得ようとか、何か特別な事をしているという気持ちでやっていられるなら、その気持ちは捨てちゃってください。

無というのは簡単なことではないかと思いますが、考えないように考えてもダメなのです。
考えが浮かんできてもそのままに、追求しない事です。うけながしていきます。今目の前の事、ありのままを受け入れていくのです。
自分というものも相手というものもなくなるのです。

私も日々修行しています。共に頑張りましょう。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

邦元さま、ご回答ありがとうございました。いろいろな考えが湧き上がってきても、湧き上がるままに湧き上がらせておいてもよいということでしょうか?それもなかなか難しそうですが、頑張ってみます。ありがとうございました。

丹下様、ありがとうございました。現実逃避の手段としてたのもしれません。もう一度考えを新たにしたいと思います。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ